2008年10月

全快を、祝う。(篆刻:快)

快
東京で、大学の広告研究会の同期会。向かいに座ったHがシャツをたくし上げて、
お腹を見せた。腹腔鏡手術の傷あとは、盲腸よりも少し大きい程度。医者も初めてという
8時間の手術で、ガン細胞で詰まった十二指腸はすべて、すい臓を半分など、全部で
4つを摘出した。それを出すための穴であって、腹腔鏡自体は小さな穴なのだという。
もう体にはガン細胞は見つからず、週3日会社に行っていると聞いて、皆が拍手した。

実は、この会に持っていき皆に見せたかったが、闘病中のHには冗談が過ぎると
置いていったのが、あみだクジ。この夏、幹事長だったMの葬式の後、皆で飲んだ。
まだ飲み足らない3人で、次の店に行った。で、酔えば大学時代の悪いノリになって、
次は誰だと、店のチラシの裏に同期の名をすべて書き出し、あみだクジをしたのだ。
向かいのHに、それを話したが、全快した彼には、それも笑い話。ああ、良かった。

あみだクジは、なぜ阿弥陀なのか。室町時代から、そのようなものはあったらしいが、
はじめは阿弥陀さまの後光のように線を放射状に引いた。いつか線は真っ直ぐになり、
阿弥陀の言葉だけが残ったとか。さて、家に帰って、改めてそのあみだクジを見たら、
Hはちゃんとセーフになっている。阿弥陀さまは、Hの奇跡の回復をお見通しだった。
篆刻は、「快」。前回と同じパターンのオチだが、前回は全快で、失礼。(何じゃ、それ)

ネズミと、クラゲ。(篆刻:子)

子
子(ね)年もあと2ヵ月と少し。不安と混乱の日本で、ノーベル賞がほのかな光と
なったが。話はネズミ、それも実験用のネズミのこと。(社)日本実験動物協会に
よれば、平成16年度には実験用にマウス(ハツカネズミ改良種)627万匹、
ラット(ドブネズミ改良種)255万匹、合計で約800万匹が販売されている。
そのすべてが解剖されて死んだのかというと、必ずしもそうではないらしい。

たとえば、ガン細胞の増殖の過程をマウスで調べるには、従来は同時に多量の
マウスにガン細胞を殖えつけて、順に解剖、つまり殺していた。それが最近は、
細胞や遺伝子を蛍光染色して、マウスを生きたまま長期間観察できるin vivo
(生体内)イメージングという技術が急速に普及している。この蛍光染色の端緒に
なったのが、下村脩さんが1962年にオワンクラゲから発見した蛍光たんぱく質。

干支(えと)のネズミがなぜ漢字で子なのかは、よく分からないが、篆刻は「子」。
このお釈迦さま誕生の天上天下唯我独尊のようなこの形を、私は女性の注文印で
使うことが多い。しかし、本来は身分ある王子などに使われた文字だったらしく、
一般の子どもの場合はバンザイした形。人生は生病老死と喝破したお釈迦さまも、
まさかクラゲがネズミや人間の命を救うことになるとは、ご存知なかっただろう。

疲れも、過ぎれば。(篆刻:過)

過
疲れるとヘルペスになる、という友人がいる。彼にとって、ヘルペスは疲労の
バロメーターにもなっている。このヘルペスウイルスの一種であるHHV-6は、
赤ちゃんのすべてが感染する。その後一生涯、脳などに潜伏し続けるのだが、
仕事などのストレスで再活性化(増殖)して、唾液に放出される。ウイルスが
宿り主の危険を察知して、生き残りのため元気な宿主へ感染しようとする。

まるで、危険が迫った船から逃げ出すネズミのようだが。このHHV-6が脳内で
異常に増殖すると、中枢神経機能に影響を与えて、慢性疲労症候群の人には
うつ症状をもたらすという。"KAROSHI"と、そのまま学名にもなっている過労死は、
疲労を本人が自覚できないまま死に至ってしまう。唾液中のHHV-6を調べれば、
疲労の度合いを把握でき、過労死の予防にもなる。疲労の研究は、進んでいる。

疲労の原因物質は長い間乳酸とされたが、乳酸は筋肉の働きを良くする物質で、
むしろ疲労を軽減するために筋肉中に増えることが数年前、分った。さらに、
つい最近、ヘルペスウイルスに関係するたんぱく質FFこそが、疲労原因物質と
特定された。篆刻は、疲れて目が回ったような「過」。咼は、残骨と祝祷の器・さいで、
死霊に祈って、人に禍を与えること。何事も過ぎたるは、禍(災い)なのだ。

文字の、病気。(篆刻:文)

文(心字)
我々の祖先ホモサピエンスが誕生したのは、約20万年前。そして、最古の
文字は、約5300年前のメソポタミアの粘土板で取引の記録。松原泰道老師の
『百歳で説く「般若心経」』には、「お経を文字で表すことは冒涜であった」とある。
お釈迦さまの時代(約2500年前)でも、文字はまだ信用されてはいなかった。
人間の脳は、文字という新発明にいまだに対応できず、無理をしているらしい。

それが特に著しい人が欧米には10人に1人、日本でも20人に1人はいる。
病名は「読字障害」。聞く、話すのは出来るが、文字を読むのが苦手、それ以上
書くのが苦痛。文字が絵のように見えて、意味を理解するのに時間がかかる。
脳は見た文字をまず音に変換して、さらに意味を知るのだが。音に変換する
左脳のある部分が機能しきれないらしい。ピカソもディズニーも、そうだった。

しかし、左脳の欠陥を右脳が補うので、立体や空間の情報処理に優れている。
映画「ジュラシック・パーク」のモデルの恐竜学者も、1片の化石から恐竜を
言い当てられる。人間が文字を使いはじめたことで、新たに「文字の病気」が
生まれたのは皮肉だが。以上は、つい先日のNHKスペシャルの受け売り。
この素晴らしい企画も構成も、文字があったからこそ生まれたのも、また事実。

文字の、災い。(篆刻:文)

文
たとえば「化」という漢字を見詰めているうちに、それがバラバラに分解して、
ただの線になる。「ああ、化という文字だった」と思い直すまでに時間が
かかった経験はないですか。ゲシュタルト(総体)崩壊という心理的な現象。
中島敦の小説『文字禍』で、古代アッシリアの老博士は、これが文字の霊の
存在の証しとした。この報告に文化人の王は、怒って博士を謹慎させる。

大地震の時、自宅の書庫にいた博士は、文字たちの呪いの声とともに、
無数の粘土板の書物で圧死する。中島敦が「文」という漢字の意味を知って
いたかは不明だが、「文」は呪いと無関係ではない。篆刻の「文」は、人の
胸の部分に心や×のある象形で、朱の入墨で聖化して悪霊から守るまじない。
いまでもお宮参りの子どもの額に赤い×を描くことは、この名残りだという。

「文字の無かった昔、・・・歓びも智慧もみんな直接に人間の中に入って
来た。・・・近頃人々は物憶えが悪くなった。・・・人々は、最早、書きとめて
置かなければ、何一つ憶えることが出来ない。・・・文字が普及して、
人々の頭は、最早、働かなくなったのである。」 そうだ、私の物覚えが悪く
なったのは、齢のせいでも、ボケでもない。「之も文字の精の悪戯である。」

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