2015年3月

人生は、後半。(篆刻:看後半截)

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横浜市立東台小学校で私の5、6年の担任は女性のE先生だった。下の学年から
団塊の世代で、子を私立に受験させようとする親も増えていた。その傾向を先生は
好ましく思っていなかったようで、反動でか公立しか考えていない私を何かと前に
押した。学芸会で劇を演出させ、卒業式で総代にしたり、子ども心にも強引に感じた。

大阪茶屋町で篆刻の初個展をした時は娘さんのいる堺に身を寄せていたので来て
くださったし、この家も訪ねてくれた。その後、住み慣れた鶴見・東寺尾の高齢者用
住宅で悠々自適に絵や文章を楽しまれた。東京の熊谷守一部美術館では会場が
3階で登る自信がないからと来られなかったのは仕方のないこと。平成22年の米寿
には絵と文章を子ども一同が作品集にしてくれた。それを読んではじめて、「女は物を
言うべからず、表に出るべからず」という主義のご主人にあらがいながら教師をして
いたことを知った。43年近く連れ添いながら、ガンで亡くなる直前に初めて「ごくろう
さん」と言われたのだが、あとがきには「いちばんありがとうを言いたい人は夫」とある。

理由は3人の子を授けてくれた人だから。今年の年賀状は細かな切り絵で、まだ
お元気とうれしかったが、21日に亡くなった。後半生を人並み以上に謳歌した93年
だった。篆刻は「後半截を看よ」、後半生によってE先生の一生は幸せだった。合掌

日展を見てきた。(篆刻:続歩不倒)

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奈良の陶芸家・喜多浩介さんが、改組新第1回日展の工芸美術で特選を受賞
された。券を送っていただいたが三游会の準備もあって最終日にやっと見せて
いただくことができた。《渇きの惑星》という作品は会場入り口にあって、すぐに
分かった。陶芸については無知な私でも、並々ならぬ技術を駆使しての大作と
感じ入った。いままで挑戦を続けてきた手法をさらに突き詰めたと思える集大成。
陶芸の地平をなおもその手で押し広げようという熱と意を感じて、心地よかった。

さて、篆刻は。以前からあった問題が明るみに出て改組のきっかけにもなった
のだが。せっかく来たからと見てみたけれど。林のように並ぶ書の大きな額に
押しつぶされるのを避けるようにガラスケースの中にある。審査員や審査方法を
変えたのだろうが、作品そのものは何がどう変わったか皆目分からない旧態
依然のものばかり。中には、ほとんどの人が一生見ることもないような漢字を
どこかから引っぱり出してきたものだから、PCで打ったらしい題名も書体が揃わ
ない。この作者はミイラ化した文字のゾンビをつくって、何をどうしたいのだろう。

篆刻「続歩不倒」は今回の三游会の作品のひとつで、アイリスオーヤマの社長の
言葉を借りた。私は篆刻の新しい何かを探しながら独行独歩を続けていきたい。

金沢で、出逢って。(篆刻:出逢)

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4月3日からの三游会用に篆刻、大小40点ほどを彫りはじめて約1ケ月。昨日、
額装するための裏打ちに出して、ひとまず一段落したから、久しぶりのこのブログ。

45年前、新米コピーライターの私は、三菱銀行広報課分室でチラシなどをつくって
いたが、“DCカード”の広報誌で地方都市の紀行という企画が出た。五木寛之の
『朱鷺の墓』を読んですぐだったので金沢行きを志願した。東京から新幹線の米原
経由で6時間以上かかったから、一泊しても正味の取材時間は丸1日も無かった。
おまけにカード誌の取材だけれどカードなどある訳がない。型通り九谷焼の窯元を
訪ね、兼六園に行き、じぶ煮とゴリという川魚を食べるくらいで精一杯。夜8時には
大通りに人影もなくなるから、まあ何と田舎かと驚いた。帰りの金沢発は午後3時頃、
時間つぶしに入った大樋焼の窯元の店で、いまのカミサンと出逢ったのだが。結婚
までは遠距離交際。会った回数は数えられるほどで、電話代も高かったから文通が
メイン。結婚後はコピーライターの文章にだまされたと事あるごとに言われる始末。

この3月14日に北陸新幹線が開業した。東京・金沢間が2時間28分になって、
東京・大阪間と変わらない。こんなに近かったら何度も会えるから、正体は丸見え、
とても結婚など出来なかったろうと、開業のニュースを見ながら冷や汗が流れた。

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