不常識『篆刻講座』

不常識『篆刻講座』 10:甲骨文を知らなかった篆刻家たち。

2015121911449.jpg 「写真:亀甲(部分)」
今回は篆書体の話ですが、中国の篆刻家にも関わることなので興味のない方はスルーしてください。
さて、写真は亀の腹甲に刻まれた文字で、3200年ほど前、古代中国・殷の王が天の啓示を占った記録。牛の肩甲骨もあるので甲骨(亀甲獣骨)文と呼ばれます。劉鶚(りゅうがく)が1899年に発見し、1903年には資料集を出版したけれど、科学的に発掘されたのは1928年からのこと。それに参加した董作賓(とうさくひん)によって初めて甲骨学が大成されたけれど、彼は甲骨文の原形はさらに1500年前に遡るだろうと言っています。

ここから篆刻の話です。戦国時代に始まった印章や始皇帝が定めた官印などはパスして、北宋の米芾(べいふつ)を開祖とする文人が自ら刻んだ篆刻のこと。明の時代に彫りやすい石の印材が知られて、一気に広まった篆刻は、18世紀になって丁敬を祖とする浙(西冷印)派が興り、優れた篆刻家を輩出します。さらに清時代には鄧石如が革新を行って、呉譲之、徐三庚、趙之謙などが育ち、清末期には呉昌碩、黄士陵、斉白石など次々と優れた篆刻家が現れた、となるのですが。

ここで名をあげた篆刻家のなかで、趙之謙までは甲骨文が発見される前に亡くなっているから、その存在すら知らなかったのです。私が好きな黄士陵は金文を巧みにしたけれど、1908年没だから甲骨文発見を聞き、資料は見たかもしれない。呉昌碩は1927年没だから本格的発掘の成果はもちろん、その解読研究も知らないのです。

いま篆刻をされる方々が誰を尊敬し、誰の作風に習おうとご自由なのですが、甲骨文という文字が生まれたときの生き生きした姿とそれにまつわる物語の存在すら知らなかった篆刻家やその作品にどう向き合うべきなのか。彼らに非はないし、尊敬もするけれど、土の奥深く埋もれていた原初の文字を知らないまま、体系化、様式化されてからの秦や漢の篆書体とそれを刻んだ作品を、私は手放しで素晴らしいとは言えません。いかがなものでしょうか。

不常識『篆刻講座』 9:近藤正臣さんへの、新「正臣」。

2015116115725.jpg「正臣(20×20ミリ)」
油絵は気に入るまで何度でも塗り重ねられるそうだが、ほとんどの創作はどこかで踏ん切りをつけて作品として仕上げなければならない。篆刻のデザインをして彫らずに翌日見直せば、きっとどこかを直したくなるけれど、それを延々と続けてほとんど彫れない人もいる。莫山先生も、上手いの下手のと考える前に、とにかく数を彫れとおっしゃっていた。

もう15年以上前だが、大阪の茶屋町画廊で初の個展をしたら、東京の友人が下北沢のギャラリー「思無邪」を紹介してくれて、そのままの勢いで共同展めいたことをした。そこで俳優の近藤正臣さんが「正臣」を注文してくださった。広告の現役バリバリだったから、私の篆刻でいいのかなと思いながらも一所懸命に彫った。いま私は広告から篆刻に軸足を移したが、近藤さんも大河ドラマや朝ドラの常連といっていいほどの名脇役になられた。テレビで拝見するたびに、あの旧作「正臣」がクッキリと浮かんでくる。それが「あさが来た」で毎朝ともなれば恥ずかしいやら苦しいやら。いまの近藤さんにいまの私がどんな「正臣」を彫るのか、彫れるのか。彫らずにはいられなくなった。それがこれ。事務所を検索して、お便りを添えてお送りした。

早速マネージャーの方から丁重なメールをいただき、「近藤に伝えたところ、下北沢のことも覚えているが、NHKの正月スペシャルや大河ドラマの収録で忙しい。篆刻を見てもらうまで少し時間が欲しい」とのことだった。そして、昨日の午前中、東京からの電話に出てみると「近藤です。すてきな篆刻をありがとうございました」と、さっきテレビで聞いた声。為書きに書いた「正の字は、城郭に囲まれた街を攻めることだったのですか」、(そうです、攻め勝った方が正義。勝てば官軍ですね)、「昔の作は昔のこと、これは新しい感覚ですね。これからこれを使います」、「袋物が好きなので、この袋もすごくうれしい」と、私とカミサンの気持ちを真っ直ぐに受け止めてくださった。喉に刺さっていた大骨がスッと溶けて消えていった。

さて、久々の不常識「篆刻講座」が、とにかく数を彫れ、旧作が恥ずかしければ新作を彫れと、常識的なことばかりになったが、頼まれてもいないのに彫って送りつけるなど不常識の極み、というお話です。

不常識『篆刻講座』 8:本来、法など無い。

201512017244.jpg「本来無法(40×40ミリ)」
正月気分も抜けたから、「いわゆる篆刻」への憎まれ口を再開しよう。この篆刻「本来無法」は、アートとしての書を目指した井上有一の遺偈「貧を守って揮毫する 六十七の霜 端的を知らんと欲す 本来、無法なり」から借りた。

無法を語るには、まず法の言い分を聞いてから。「いわゆる篆刻の作法」には、時代の違う書体は混ぜてはいけない」とある。書体とは、最古の書体で亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻まれた甲骨文、青銅器に鋳込まれた金文、そして秦の始皇帝が統一した篆書体。さて「本来無法」を篆刻しようとすると、「本」は甲骨文、金文になく、「来」は甲骨文、金文にある。こんな場合は、「来」に合わせて「木」と根元を意味する「肥点」を加えて「本」を作れという。ここでもう「書体を混ぜるな」という作法が破たんしてしまうのが情けない。

「無」は甲骨にはなく、金文、篆書では巫女が飾りのついた袖を振って舞う姿だが、後の中国の篆刻家が常用する漢字で彫った「無」とした。「法」は、甲骨文になく、金文では神前での審判に使う羊の象形「タイ」と水と去だが、篆書体には常用漢字の原形がある。こうして私の「本来無法」は出来ているのだが、「いわゆる篆刻」では言語道断の掟破りになるらしい。

いわゆる篆刻が書体を混ぜるなというのは、何度も言うが「もっともらしい贋作を作ろうとしているから」なのだ。新たに発見されたゴッホの絵に、その時代に無かった絵の具が使われていれば贋作となるのと同じ論法。

緑青のでた銅印の風韻を金科玉条とするならそれで結構だけれど、ここは21世紀の日本なのだ。漢字が中国・殷の時代に現れたのは3400年以上も前。日本に渡り、片仮名、平仮名が生まれ、アルファベットもあるこの日本で篆刻を志すなら、膨大に蓄積された多様な文字という宝の山を持ち駒として自由自在に駆使しながら、自分の前の原野に攻めていくべきではないか。もともと法などはない。もし法があるとすれば、自分だけの法を探し、創る。厳しいけれど、それしかないのですよ。

 

不常識『篆刻講座』 7:天皇御璽は、端正です。

20141126125736.jpg「天皇御璽(90×90ミリ)」
この21日、伊吹衆院議長が解散詔書の「衆議院を解散する。御名・・・」と読んだところで「万歳!」が叫ばれて、続く「御璽(ぎょじ)」が言えなかった。この詔書に押されていただろう御璽は、明治7年に秦蔵六が鋳造、印文は小曾根乾堂、彫刻は安部井櫟堂による金印(18金)で、今日まで改刻されず使われているのだそうだ。

これを榊莫山先生は「正面きった篆書体の文字を斉正典雅に掘りあげて、表情は端正である。だがややシンプルにすぎて風韻に欠ける」と評しています。確かに風韻には欠けている。でも御璽は印章・篆刻の最高位として風韻など、下世話に言えば面白みなどハナから求めていないのだから仕方がない。

篆刻の風韻といえば、御璽の対極にあるのが日展・篆刻部門の入選作の数々。なぜかほとんどが「漢銅印の風韻にならう」とかで、銅が錆びてボロボロ、ザラザラになった具合を再現(?)しようとしてか、印刀でガリガリ、ゴリゴリ。大きくても23ミリ角程度の漢銅印を日展用の大きな石で真似れば、銅印のザラザラが縦挽きノコギリの刃のようになったりする。「風韻にならう」ことも度を過ぎれば、油絵にコーヒーを塗って古色を装う贋作づくりに限りなく近いと思うのだが。もっと大事なことは、銅印のほとんどが官印だから錆びる前、作られた時は典雅で端正だったことを忘れてはいけない。

再び莫山先生の話。美術評論家の池田弘という人が篆刻を好んで作ったが、篆刻家の園田湖城が初期の作に「池田君の刻は、刀が切れすぎる」と言った。その後「30年に近い歳月は、池田の刀の冴えをゆるやかに沈潜へと向かわせた。刀は方寸の世界を自在に駆けめぐっているが、切れ味は緩急ほどよい響きをみせる」と結んでいる。

私は、ここに篆刻をする者の正しい道程を見るのです。まず、文字の骨格のもっとも美しい姿を、端正すぎることや面白さに欠けることを恐れずに、真剣に追及する。刀の切れすぎを恐れて、曖昧に走ってはいけない。それを続ければ、時と時が生み出すその人の味が、いつか得も言われぬ篆刻の味になる、と信じている。私の場合、日暮れて道遠し、ではあるけれど。

 

不常識『篆刻講座』 6:これが、横書き用の名前の篆刻。

20141013133132.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像「敬志(20×20ミリを拡大)」
最近はさすがに見ないが、トラックの荷台に書かれた社名が左側は「〇△運送」なのに右側が「送運△〇」となっているのがあった。車は走るものだから社名も車の頭の方から書く、とでも思い込みがあったのだろうか。日本語の文章、表記が縦書きから横書きに変わる葉境期の戸惑いが見て取れた。

現代は、言うまでもなく圧倒的に横書き。スマホのメールを筆頭に、テレビのニュース、官庁の文書までが横書きになった。NHKの『100分de名著』という番組でも枕草子の一節までが横書きなのだから。いまだに縦書きなのは新聞、本、書道くらいではないか。さて、ここからやっと篆刻の話になります。

結論を言うと、横書き時代の篆刻、たとえば「敬志」という名前の印は、こうあるべきではないか。まず、文字の配置。従来の篆刻の常識では文章の縦書きが前提だから、右に敬、左に志なのだが。これは横書きのままに左から敬、志として、文章の方向と名前の順を揃えて、目線の混乱を無くした。さらに、文字が赤くなる朱文の周囲の枠は。一般には四辺の太さをほぼ均等にするが、私は太さを変えることが多い。下は安定感を出すためにやや太く、上は文字の上に伸びる線を邪魔せず、圧迫感を無くすために細く、また破ることもある。左右の枠は、従来の篆刻は文字が右からだから、右は太く、左は細くか破るかにするのだが。横書きの敬志だから、左の辺を太く、右の辺は細くまた破って、目線の流れに添わせている。偉そうに言うこともないけれど、これが横書き用の名前の篆刻。

私はメールにもハンコを挿入しようと「メルはん」というネーミングまで考えて、HPでもお勧めしていながら、その篆刻風画像は縦書き用のままだった。その不自然さに最近やっと気づいたことを大いに恥じている。しかし、まあ、縦書きでも横書きでも兼用できるように、文字の順はともかく、枠は左右変わらない太さで、というテもあるんですが・・・

 

不常識『篆刻講座』 5:赤勝て、白勝て。

20149916139.jpg 「緩急(45?45ミリ)」
中国の篆刻作家は、あまり赤い印泥を使わない。国中に赤が氾濫しているのに、こと篆刻となると赤なんて子どもっぽいとか言って、茶、褐色を使う。日本では、やはり赤系が主流で、私も朱がかった「光明」か、紅がかった「美麗」を使っている。日本人の赤好みには、国旗の白地に赤くが深く影響しているのかもしれない。

篆刻は、文字以外を彫って押したとき文字が赤になる朱文と、文字部分を彫って押すと文字が白くなる白文の2種類だが。私は、いつ頃からか朱文と白文を混ぜる朱白文を楽しむようになった。四角なら左右を、長方形や自然石なら上下に朱と白を配する。4文字の四角い作品では、朱白を市松にすることもある。注文印でも朱白文のご希望がときどきあるが、他の篆刻作家さんで朱白文はあまり見かけない(ようだ)。

さて、この「緩急」。普通なら右の緩を朱文、急を白文でほど良く収めるのだが、ふと糸ヘンを縦割りして朱白にできないかと思いついた。急の細く白い枠を糸の半分の白文にすることで、帳尻は合う。もちろん、このテの試みは紙の上の白黒のデザインだけでなく、画像ソフトで赤白にして仕上がりを確認をしてから彫りはじめる。糸が朱白になるのがポイントだから、それ以外はケレン味を加えず、淡白にした。

いま思えば、展覧会が迫った苦しまぎれの思いつきだったかもしれない。成功か失敗かは分からないが、額装したこれを買ってくださった方がいたから、一応成功と考えよう。篆刻は印泥の赤と紙の白で創る世界。赤と白のバランス、せめぎ合い。赤勝て、白勝て。いや、赤勝て、白も負けるな。篆刻は見た目はシンプルだけど、言葉の意味や字源の物語が加わって深度が生まれる、そんな大人の遊びです。

 

不常識『篆刻講座』 4:四角四面を、跳び出して。

2014820114413.gif「クウ、ネル、アソブ(45×45、15×15ミリ)」
篆刻では「方寸の世界に遊ぶ」という言葉があります。実際に彫るのは一寸(約3センチ)四方の小さな石だとしても、そこを自分の世界、いやおのれの宇宙と見立てて大いに遊ぶべし、ということ。要するに小さく固まらず、縦横無尽、天衣無縫にやろうじゃないか、ですね。

以前の三游会で、若い女性から「好きな言葉は、食う・寝る・遊ぶなんですけど、篆刻にしてくれませんか」というお話があった。面白いですね、やってみましょう、とお受けして、さ~てと考えた。漢字の「食・寝・遊」も無いことはないが、娯楽系サークルのモットーみたい。ならばカタカナで、となるのだが、そこから先の工夫が欲しい。

いま思えば、遊ぶ→ゲーム→ジグソーパズルと連想したんでしょうね。右からクウ、ネル、アソブを並べて、それが読める範囲の場所に、ジグソーのピースふたつがはまるようにした。ふたつのピースは別の石で彫ったから、押すときに離したり近づけたりできる。カタカナの太さに強弱をつけたのは、同じ太さにすると線が単純化されて読みにくいから。

わざわざ読みにくくしておきながら、それでも読みやすさに配慮するのだから、ややこしいけれど。これぞ、遊びの楽しさです。私は篆刻で言葉を彫って暮らしを彩るアートにしたいけれど、アートこそココロとアタマの遊びです。今日、私は70ちょっと手前の誕生日ですが、ホントに人生は「クウ・ネル・アソブ」がよろしいようで。

 

不常識『篆刻講座』 3:お行儀ばかりが、良くっても。

2014731182110.jpg 「拈華微笑(50×50ミリ)」

お盆には少し早いけれど、篆刻は「拈華微笑(ねんげみしょう)」。釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で説法した時、蓮の花を聴衆に拈(つま)んで示したら摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意を悟って微笑したので、正しい法は迦葉に伝えられたという故事、いわゆる以心伝心です。

さて、これを四角い石に彫る場合、普通は右に縦で拈華、左に微笑を置いて田の字にする。または「幸都萬具」のように、右から左に縦長に四文字を並べる。どちらも文字は同じ大きさになる。お行儀はいいけれど、面白くはない。なぜなら、あえてこの四文字を選んで彫った、その人の解釈が見えないから。

楽篆堂は、考えた。拈もうが捩(ね)じろうが、とにかく釈迦は蓮を差し出した。迦葉は静かに笑ったが、悟った瞬間だから「あぁ」くらいは言ったかもしれない。要は釈迦の「花」と迦葉の「笑」であって、他は形容、説明にすぎない。そこで「華」と「笑」をほぼ対等に大きく扱う。それでも「拈華微笑」と読んでほしいから、右からの順は崩さず、拈と微はすき間に溶け込ませたのだが、いかがだろう。

「いわゆる篆刻」は雅味を尊ぶから、だいたいお行儀がいい。でも、篆刻は表現であり、コミュニケーションなのだから、漫然とした表現ではなくて、まず作者の自己表現でありたい。自己表現ならお行儀などと言ってる場合ではない、と思うのだが。いや、その時迦葉がゲラゲラ笑ったら釈迦は不愉快だっただろう、やはり「微」が肝心、という穏健な解釈だって有りうる。そんな微を強調した「拈華微笑」も見てみたい・・・怖いもの見たさだけど。

 

不常識『篆刻講座』 2:使えるものは、何でも使う。

2014722114748.jpg 「空(40×40ミリ)」

これまで「空(くう)=穴+工」は何回も彫ったけれど、ウ冠の下の八がパンダの目のようになる。パンダだと思うとその下の「工」まで口に見えてくる。やっとパンダじゃないかなと思えたのが、これ。上の点を取って、ワ冠にしてしまったが、この円はコンパスで書いている。それを鉛筆で適度な太さにして、細いサインペンで清書する。この段階で、機械的、無機質なコンパスの線は、もう消えていると思うのだが、どうだろう。

この清書したものをトナー式のコピー機でコピーする。トナーの面を印面に当てて、裏から除光液で湿らせると、カーボンが印面に移って、きれいに転写できる。偶然性の雅味を尊ぶ篆刻の先生はこの方法を嫌うけれど、石の性質や彫る人のその日の調子があるから、印面のカーボンの線を100%そのままに彫ることなどとても不可能。偶然性に意固地にならなくても、偶然性は嫌でも向こうからやってきます。

それでも多くの篆刻教室が厚紙に朱墨と墨で原稿を書き、印面にも朱と墨で逆に手書きで写すことを教えているようです。なぜそんなことに手間暇をかけるのか理解できない。多少の経験があれば、白い紙に黒い線だけで、どこが朱か白かは分かるはず。デパートで実演している中国・西冷印社の人だって、印面に直接筆で逆文字を書き込む。日本では朱墨を使うと話しても理解不能、キョトンとするばかり。

私はもちろん彫るのは印刀だが、小さな石の塊りが邪魔すれば迷わずガラスの彫刻などに使うルーターで削り取る。機械は臨機応変、必要に応じて使うべきです。機械を毛嫌いするなら、機械で切って磨いた印材も使えないはず、原石を買って金ノコで引かなくっちゃ。コンパスの話に戻れば、篆刻の先生の多くは、もっての外とおっしゃるでしょうね。でも、葛飾北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」で、北斎先生は明らかにコンパスをお使いです。

 

不常識『篆刻講座』 1:上は密に、下は疎に。

2014710175122.jpg  「幸都萬具(40×40ミリ)」

自分の篆刻を解説するのが「篆刻制作にいそしむ方々のヒントになれば」などというのは、実におこがましいけれど。篆刻教室に通いながら、篆刻の決まりごと、約束ごと、加えて先生の押し付けに息苦しくなっている方も多いのではないかという老婆心で。不常識な『篆刻講座』を不定期で始めます。

誰からも教えを受けたことのない独学、青天井の風通しの心地よさを知っていただければ、まだまだ篆刻の魅力や可能性の無尽蔵に気づいていただけるのではないかと思いつつ、恥を承知で旧作のホコリを払いながら、第1回目は「幸都萬具」です。

彫ったのは35年ほど前。篆刻という遊びを知って間もなくの頃、「サイドバンク」というバーの名前を「幸いの都によろず具わる」と漢字にもじって彫ってみた。大阪・梅田の紀伊国屋書店に篆刻の手引き書が一冊しかなかったから、まったくの無手勝流。あれこれデザインするうちに、どの文字も下に流れる線があるのに気づいて、素直に伸ばしてみた。

それから10年ほどして、これを榊莫山先生に取材の合間に見せたのだから、我ながら恐ろしい。彫った後に本で知った「上は密、下は疎」という定石のひとつなのだが、莫山先生は石を見るなり「おもろいなァ、おもろいなァ」とおっしゃった。

この時「まァ、よくある手法のひとつやな」と軽くいなされていたら、私はいままで篆刻を続けていなかっただろう。「上密下疎」は上手く決まれば面白いけれど、下に伸びる線が無い文字に使えないのは言わずもがな。不常識と言いながら定石の話で始まってしまったけれど、児戯に等しいこれを莫山先生に見せた非常識の話でお許しください。蛇足ながら「人は、ほめると育つ」。これも常識ですが。

 

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