2006年3月

異はあるけど、同を求めよう。(篆刻:求同存異)

求同存異

「異はあるけど、同を求めよう」なんて、まともな日本語になっとらん。
しかも、めっちゃアブストラクト。ごもっとも。でも、ちゃんとした中国語です。
「求同存異」は、中国読みで「チウトンツンイ」、日本読みなら「きゅうどうそんい」。
相異があると認めたうえで、お互いの同じところ、共通点を求めよう、ですね。
それなら、「靖国参拝」と「求同存異」はどうなのよ、という話は置いといて。

実は、きょうは、むかし隣だったYちゃんという娘さんの結婚披露宴なのです。
何か、お祝いにちょうどいいハンコはないかなあ、と探したのが、これ。
若いふたりは披露宴なんて虚礼だと思った。でも、Yちゃんのお父さんは、
意味はあるのだ、と言った。ここまでは「存異」。しかし、「幸せとは、ふたりだけで
なれるものではない」という点で、「求同」。これで目出度く、本日の披露宴。

他人だったふたりが、いっしょに道を歩もうと決めたのは、響きあう同じものが
あったのでしょう。ちなみに、「同」の字は、酒の器である「凡」と誓いの言葉を入れる
器の「口(さい)」なんだそうです。お酒で払い清め、参加者が一体になるのが「同」。
「Tさん、Yちゃん、そしてご両親、親族の皆さま、誠におめでとうございます」
電波にのってケータイでも読める祝辞、「天からの贈りもの」になりました。

両方、忘れよう。(篆刻:両忘)

両忘

仲畑さんの有名なコピーに「好きだから、あげる。」というのがありましたね。
この「両忘(りょうぼう)」、篆刻として別に取り得もないけど、「好きだから、載せる」
上は密、下が疎、という構成の定石。字体だって、普通。
自分では、このあたりから楽篆堂流の兆しを感じるが、他人様には分からない。
好きなのは、その意味。でも、両方って、何の両方なんだ。

両方は、こっちとあっちなら、何でもいい。いわゆる反対語です。
貧と富。美と醜。苦と楽。上手と下手。寒と暖、高と低でもいいですよ。
ここにあるのは、世にいうところの価値。ふたつの価値から、差や違いが生じる。
この価値は、どれも相対的なものだということ。絶対的なものではない。
いくらクレオパトラの鼻が高いといっても、天狗にはかなわない。

目盛りの付け方で、どうにでも変わる、そんな相対的な価値や状態に
一喜一憂するのはやめようよ、やめちゃうと楽だよ、ということ。
禅の言葉だと思うけれど、日常でも、長い人生でも、これは言葉の常備薬。
そうだ、剣道の勝った負けたも「両忘」でいこうと、袴に刺繍までしましたが、
刺繍したからって身につく訳でないことは、万年三段が証明しております。

シンプルなら、伝わる。(篆刻:約而達)

約而達

「想深語軽」に続くのは、「約而達」 約にして達す、と読む。
これも過去の習作、出典さえ忘れてしまったという情けない話なのですが。
約は、簡約の約。まとめる、はぶく、簡単にする。達すは、伝達の達。
シンプルな方が伝わりやすい。シンプルでないと伝わらないぞ、に近いかな。
これにて「想深語軽」の補足説明とさせていただく次第です。

これとまったく同じ意味の英語を、教えられた。もう、30年以上も前なのだが。
先生は、あのプロクター&ギャンブルからの回し者、ワトソンという男。
世界各国のCMを見せながら、いわゆるP&Gのノウハウを伝授してくれた。
石鹸の泡の立て方からインタビュー、隠し撮りのマル秘テクニックまで。
その後の「ラーマ」や「ブラウン」の隠し撮りは、この先生が元祖であります。

「キープ・イット・シンプル、ステューピッド!」 頭の四文字で、「KISS」という。
ステューピッドは、馬鹿じゃなくて、ニコッと笑って、ポンと肩をたたく感じ。
「シンプルにいこうよ、ね」 ところが、私がCMにすべき商品の決めの言葉は、
「お湯、ぬるま湯、水、どんな温度でもきれいになります。全温度チアー」
3年ほどのお付合いで最後まで、先生とは「KISS」の関係になれなかった。

想いは深く、言葉は軽く。(篆刻:想深語軽)

想深語軽

「想深語軽」 想いはしっかり深く、でも、言葉にするならやさしくね、という意味。
これも、昔の習作で恐縮ですが、篆刻としては新しくも何ともない。
言葉も、何かの聞きかじり、読みかじりで、自分のものでないのが残念。
でも、その意味は、時代がどんなに変わろうと、擦り減らず、ぴっかぴかだ。
とくに、想いも浅く、言葉も軽い、この時代にあっては、と想う。

広告の世界では、そのアイデアが出るまで、どんなに苦しんだとしても、
その表現では、何かの拍子にピョコッと生まれたくらいの軽さをよしとする。
すっきりと爽やかな顔だから、言いたいことも伝わるというもので、
それにいたるまでの便秘や嘔吐というプロセスは、ご勘弁願いたいもの。
もちろん、テレビにあふれる軽薄な広告ほど、内なる想いが深い、訳ではない。

作家の井上ひさしさんは「難しいことをやさしく。やさしいことをおもしろく。
おもしろいことを深く」とおっしゃったとか。どこか違っていたら、ごめんなさい。
アメリカの公聴会みたいなところで「ITに何ができるのか?」と問われて、
「国会図書館の全ての蔵書を角砂糖の大きさにできる!」と答えたという話がある。
ITへの想いが深くて熱いから、口からピョコッと角砂糖が現れたんだろうか。

身も土も、ふたつならず。(篆刻:身土不二)

身土不二

「身土不二」は、しんどふに。しんどふじ、でもいいのかな。
身も土も、ふたつのものならず。私はカラオケで、ここぞという時に、宇崎竜童の
「身も心も」を歌うが、そんなこととはまったく関係がない。
「不二」には、ふたつとない、という意味も。だから富士山は、もともとは不二山。
これぞ、世界に不二である哲学者・福岡正信先生の真骨頂だと、思う。

人間は自分の住む土地と切っても切り離せない、一体、同心のものだ、ということ。
家から歩いて行って帰れる範囲のものだけをありがたく食べてさえいれば、
それで十二分に健康でいられる、という実践的思想。山彦は山や川で採れるものを、
海彦は海や丘で獲れるものを食べる。それだけで、それぞれが幸福。くどいようですが、
我が家の徒歩圏内にコンビニがあるから安心だ、幸福だ、という話ではないよ。

この「身」は、ほら、お腹に子がいるでしょ。妊婦。「身」は、ただの体はではない。
この「土」も、わざわざ盛った土で、お酒で清めて祈る対象。ただの「地面」ではない。
本来、文字にはそれだけ深い生い立ちがあった。そして、それから、四千年。
文字も言葉も擦り減って、スカスカになった。と、思いませんか、特に国会の皆さん。
何だかやっと「篆からの贈りもの」らしくなってきましたね。どっこいしょ、と。

一本の草に、よろずの真理あり。(篆刻:一草万理)

一草万理

「一草万理」は、イチグサ・マリさんの名前を彫ったのではない。いっそうばんり。
神さまは、あちこちでかしましいから、1回でお引取り願いました。
一本の草に、八百万(やおよろず)の宇宙の真理が込められている、どうだ、
すごいだろう、という意味。これも福岡さんぽいな。般若心経には、お釈迦様の
教えのすべてが凝縮されているそうだから、草は般若心経の親戚なのである。

かといって、この篆刻がすごい、という訳ではない。
強いていえば、「一草」で単入法を試みている。普通文字を白く彫るのには、
一本の線を往復して彫る(双入法)のだが、単入法だと片道一回だけ。
したがって、片側はシャープに、その反対側がパリパリ欠けて、凸凹になる。
だからといって、これが単入法の新境地を拓いた、訳でもない。

この単入法を駆使して、一世を風靡した作家に斉白石という方がいる。
先の徐先生の作品が華麗さの極致とすれば、この斉先生は無骨、ぶっきら棒の
最たるもの。それがモダンだと、近年また人気のようだが、私は好きになれない。
何かで「斉先生は、お金に執着しすぎる」という話を読んだから、かな。
篆刻も、また人なり。「で、お前は、どうなのよ」という声に、私は貝、いや草になる。

一本の草に、ひとつの神。(篆刻:一草一神)

一草一神

「一草一神」は、いっそういっしん。仏さまの次にご登場ねがうのは、神さまです。
縦書きで右に二文字、左に二文字だと「一」が並んでしまう。疎密が片寄る場合は、
時計逆回りでもいいとされている。一本の草にも、ひとつの神が宿っている、という意味。
自然農法の先駆者、福岡正信さんの本にあったと思うのだが。好きな言葉というより、
自然な言葉。山里に住むと、それは当然のことであり、何の疑いもない。

ここまで書いて、えらいところに首を突っ込みかけている、と気づく。いかん。
そう、ここでなぜ草にも神が宿っているかを論証する必要はない。
科学がどんなに進化したといっても、ちっぽけな細胞ひとつ創造してないじゃないか、
というよくある話で充分だ。科学にできないことは、神の仕業に決まっている。
そう信ずればいいのだ。と居直ることで、私は救われる。

ここで肝心なのは、この篆刻が、太古の昔から現代までも、人間が自然に対して
感じ続けてきた、そう畏怖ともいうべき感覚を表現しているか、ではないのか。
「お前ごときが、何をほざいておるんじゃ」 ややっ、春日大社の方から声がした。
「人間、もういっぺんやり直したらどぅや」 こんどは、村の九頭神社の方角からだ。
「・・・か、神さま、えろうすんまへん・・・」

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