2006年7月

大丈夫、うつ病は治ります。(篆刻:大丈夫)

大丈夫

うつ病は、周りが「頑張って」と励ましてはいけない病気。だから家族、とくにカミサンは
困りはてていた。「たまには本でも読んだら」というくらい。なすすべも無く、神に仏に
祈りながら、ひたすらに待っていた。何を待っていたのか。その待っていたものが、
ついに新聞にあった。「思春期の心の病い」という連載コラム。カミサンは、この先生なら
きっと治してくれる、という直感があった、北海道でも九州でも行こうと決めた、という。

新聞社に電話した。名刺のコピーが送られてきた。「見て、見て、お父さん。この先生、
奈良なのよ」。感動のない日々を重ねたぼやけた頭でも、「奈良」は驚きだった。
拡大された名刺には「西大寺 心のクリニック 吉田脩二」とあった。
すぐ電話で予約するが、2週間ほど先。その日、病院でも、2時間以上も待たされた。
症状を話す。カミサンが補足する。飲んでいる薬を見てもらう。そして、「大丈夫」の声。

薬の処方は、ほぼ正しいけれど、あなたに効くはずの新しい薬が入っていない、という。
大正製薬のリーマス、成分はリチウム。なんともいえない安堵感に包まれて、帰宅。
夕食後に薬を飲んだ。翌朝、頭に張っていたクモの巣が消えていた。全快まで、長くは
かからなかった。吉田脩二先生。後で知ったが、「不登校」という言葉をはじめて使い、
若い人の心の病いに警鐘を鳴らし、そのケアを積極的に実践された方なのだった。

うつ病という、困難。(篆刻:困難遊戯)

困難遊戯

おかしい、と気づいたのは、朝の通勤の運転で。なぜかセンターラインを越える。
そのまま病院へ行った。結果は、うつ病。睡眠障害、自律神経失調、食欲不振。
テレビや新聞はもちろん、何にも意欲も興味もない。とにかく、人と会うのが嫌になる、
いや、人と会うのが怖い。仕事など、出来るわけがない。医者が言うままに、
何種類もの薬を飲む。電磁治療にも漢方の病院へも行った。しかし、治らない。

何もやる気にならない。ただ眠い。しかし、昼に寝れば夜なおさら寝られなくなるから、
ベッドの上で天井の板目を見るばかり。少し良くなったかと、会社に行ってみても、
良くなっていないことが分かるだけで、早退。ヨガがいい、大きな声を出すのがいい、
散歩がいい、早起きがいい。何でも試したが、どれも改善のきざしは感じられなかった。
それでは会社がもたない。私は辞めて、共同経営のYさんが、社長に復帰した。

篆刻は、「困難遊戯」。困難をも遊んでしまおう、という意味だが。うつ病という困難は、
遊ぶどころの話ではない。しかし、必ず原因がある。私の場合は、過労とストレス。
この原因そのものは、10ヵ月近く会社を休み、ひたすら休養するということで、
自覚は無いながら解消されていったのではと、思う。あともうひとつ大事なのが、
その人の症状に最適な薬の選択。私の場合、これが無かった。大いに悔やまれるが。

うつ病、そして「ハイエスト・ハイ」。(ロゴ:HighestHigh)

「ハイエスト・ハイ」

さて「袋や」は、どうなったか。決して便利ではないのに、けっこうお客さんは来てくれた。
皆さん、空気がおいしい、緑がきれい、とお茶を飲み、お菓子を食べながら感激される。
あら、もうこんな時間、とあわててお帰りになる。黒字になりっこないので、早々に休眠。
一方、私は大阪のAというデザイン会社のコピーライターになっていた。かのダイエーも
本社を東京に移したし、私は家を買った。関西にいるならM電器の仕事をしたいと思った。

広告代理店上がりだから、代理店には使い勝手がいい。社長兼アートディレクターの
Yさんも、ほとんど私に任せっきり。電通、博報堂、大広とお付き合いして、広告賞も
ずいぶん獲った。代理店のM電器担当が他社担当に変わる。M電器以外もやらないか、
という話も多く、同じビルにYさんと別会社Hをつくった。会社2つの掛け持ち。
ビジネスホテルが閉まって、床にダンボールを敷いて寝たことも、1度ならずあった。

私はHの社長になり、コピーライター、デザイナーを増やす。が、根っからの一匹狼に、
急に部下が増えたらどうなるか。人に任せる、ほめて伸ばす、ということが出来ない。
共同経営のストレスもあって、うつ病になった。10ヵ月ほどたっても、治らない。
会社を辞めた。そして、うつ病全快後に休眠していた「ハイエスト・ハイ」を復活させる。
篆刻ならぬ会社のゴム印。「二ツ巴」は、カミサンが作ってくれた薬袋のデザインだった。

巴のように、うれしく廻れ。(篆刻:巴)

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いまの会社の名は「ハイエスト・ハイ」。自然と自分が一体になる瞬間、という意味。
職業訓練校へ行きながら、考えた。自分は、本当に広告が好きなのか。
好きだとすれば、その何が好きなのか。それだけ好きなのは、何があったからか。
たとえば、ダイエーの仕事。いつも5、6本のCMが重なりながら続いて、
課長のOさんからは、次からつぎへと無理難題、答えの見えない謎掛け問答。

それでも、自分がこれだ、と思ったいい企画に、O課長はちゃんと反応していた。
それを思い出した。その瞬間があるから広告が好きなんだ、と気がついた。
クライアントの課長と代理店のCMプランナーが、自分の立場や利害を忘れて、
ふっと同じいい気持ちになる瞬間があった。その感覚こそが、ハイエスト・ハイ。
いつの日か、もしも自分が会社をつくるとしたら、この名前しかない、と決めた。

篆刻は「巴(ともえ)」。これは三ツ巴。注文印で「○○様の為に」と書く紙の、
印影と筆文字の名前の間に押している。しいて言えばその人と、私と、袋をつくった
カミサンの3人の心が、印を中心にうれしく重なればいいなあ、と願いながら押す。
ハイエスト・ハイのマークは、シンプルな二ツ巴。韓国の国旗にもある、陰陽の形。
このマークの方も、ちょっと訳ありなんですが、「ちょうど時間となりましたぁ?」。

最高中の最高、ではない。(篆刻:HighestHigh)

ハイエスト・ハイ

いまのこの家に越したのは、船場の会社のCIをやっていた頃。
すぐに住める家と思ったが、母屋の土台をジャッキアップして床板、畳を替えた。
台所の流しは、レトロなタイルだったがステンレスに変わった。
その後徐々に、五右衛門風呂はジェットバスに、汲み取り便所は簡易水洗に
変わっていくのだが、土間やかまどは、いまでもそのまま残している。

ほとんどの家は、町からお嫁さんを迎えるにあたって、土間をつぶして
ダイニングキッチンにしてしまう。この村で、土間とかまどが残っているのは、
我が家だけのようだ。母屋の2階は、はしごで出入りする物置になっていたが、
床は抜けていた。わらがむき出し、丸太を荒縄で組んだ骨組みは見事だったが、
床、天井を板張りにして、階段をつけた。20畳以上もあるロフトが出現した。

その頃には、私は大阪のデザイン会社に勤めていたが、カミサンがそのロフトで、
ギャラリーらしきことを始めた。自分の袋物と知り合いの焼き物などを並べた「袋や」。
仕入も売上もあるなら会社にしようか、とつけたのが、この「ハイエスト・ハイ」という
名前。ハワイのサーファーの言葉で、海と空と自分が一体になる至福の瞬間のこと。
それで篆刻は緑色。ハイエスト・ハイの広告が最高中の最高、という意味ではない。

田舎に暮らす、という志。(篆刻:志)

志

筋金入りの三日坊主だが、土地・家探しは4年間。私の人生、4年以上続いたのは
広告、篆刻、あとは剣道くらいのもの。あ、カミサンとは、35年を越えちゃいましたけど。
やっぱり、コンクリートやアスファルトが嫌だ、土や木や草のあるところへ、という
遺伝子レベルの欲求が強かったとしか思えない。幸いにしてカミサンの遺伝子にも、
同じ因子があった。世の男性の田舎暮らし願望は、妻の猛反対で夢に終わることが多い。

奈良市のはずれの山中の別荘地のチラシ。子供2人を連れて自転車2台で行く。
あまりに急な坂。草むらに自転車を置いて登った。こんな斜面に小屋も建たないと、
山を下りたら自転車が消えていた、とか。新聞の三行広告を見て、和歌山の御坊近く、
海の見える宅地に手付け金を払った。仕事の打合せなら白浜から飛行機で行く、と
広言してヒンシュクを買ったが、そこは国定公園内、詐欺同然の話だった、とか・・・。

奈良市の東部山間方面で、空き家があると誰かから聞けば、すぐに行って見た。
でも、外聞を気にして売ってくれない。すぐ住めそうな家でも、次に見た時には屋根が
落ちていたことは、何度もある。動物が飼えると楽しみにした子供も、いまの家が
見つかった時は、小学校の高学年。犬や猫より友達が大事と嫌がったが、親の志だ、と
引越を強行した。篆刻は、いかにも堅そうな「志」。これを「志」というかは、さておいて。

三日坊主の4年は、長い。(篆刻:長)

長

生まれ育ったのは、横浜の鶴見。海側でなく山側で、まだ田んぼも畑もあった。
イナゴ、ドジョウ、ザリガニを獲って遊んだ。母の実家が埼玉・深谷の農家だったから、
小学校の頃から夏休みにはひとりで高崎線に乗って泊まりに行った。牛やヤギがいて、
お蚕が桑の葉を食べる音も聞いた。高校になっても、自転車で鶴見の駅前に行くのは、
本屋か映画館。山手線だって大学受験で初めて乗った。横浜の田舎っぺだった。

だから、東京は、他所の都会。自分を含む他所者が、つま先立って無理しているのは
見るだけで疲れる。いまでも好きになれない。奈良に住みはじめてすぐ、
東京に出張して、帰りの新幹線に乗ると、ホッとした。それは、いまでも変わらない。
都会から離れて住みたいが広告のクリエイターでいたい。心のどこかで望んでいたが、
横浜に住んで東京で働いたし、奈良の市内のはずれに住んで大阪に通った。

田舎の土地を探しはじめたのは、大阪の広告代理店勤めの頃から。
前に書いたキッカケでその会社を辞めて、いよいよ土地探しが本格化した。
職業訓練校で大工の勉強をして、自力で家を建てるつもりだったが、柱1本もひとりで
持てないと分かって、空き家探しに方針変更。いまの家に出会うまで4年かかった。
篆刻は「長」。子供の頃からの三日坊主、熱しやすく冷めやすい私の4年は、長い。

若きコピーライターの、望み。(篆刻:望)

望

梅雨の終わりかけの大雨続き。歳の順で町会長の私は、ここ数日忙しかった。
崖が崩れた、崖から石が落ちた、倒木が道をふさいだ・・・と電話がかかってくる。
県や市に連絡する。現場に立ち会う。復旧を見届ける。関係者に連絡する。
仕事場が大阪だったら厄介なことだが、自由のきくSOHOでよかった、と思う。
半広告、半篆刻に加えての町会長のお役目は、来年3月いっぱいまで続く。

コピーライターになりたての頃、西尾忠久氏の著書「すばらしいコピーライター」で、
ハワード・ゴーセージというアメリカ人を知った。アイパッチのモデルで有名な
ハサウェイ・シャツのコピーを書き、全米「紙」飛行機協会の広告をボランティアで
続けていた。髪はシルバーグレー、シブイ年配。ああ、カッコいいなあ、と思ったのは
風貌以上に、仕事場がローカル都市の郊外、それも消防署の2階だということ。

いま私は、奈良の山里に住みながらも、なお現役として上場企業の広告を続けさせて
いただいている。私を頼りにしてくれる担当の方、協力してくれる大阪のデザイン会社、
そして少し重い画像だと何分もかかるISDNのおかげだ。篆刻は「望」。
彫金家井手望氏の注文印からお借りするが、大きな目で、先方を仰ぎ見る人の姿。
消防署ならぬ古農家だが、このワークスタイルは、若い日から望み続けたものだった。

恩は、どんな形だろう。(篆刻:恩)

恩

王さんのホームラン世界新記録は難産だったが、CM班も追っかけ続けて、
何とか撮り終えた。ペプシコーラのCM「王選手の世界新記録編」は完成した。
それは「日本のCM 200選」とかにも入っているそうなのだけれど、
特にCMとして優れているからではなく、王貞治の偉業だからに違いない。
すねた言い方だが、自分のテレビで見られないCMなんて、CMではない。

その前後に、ハワイで撮影したダイエーのファッションのCMが、
大阪のダイエー本社の宣伝部でそこそこの評価をいただいたという。
大阪の広告代理店から、CM専任のディレクターで契約しないか、という話がきた。
5月の朝、横浜の家のすぐ前の小学校に行く1年生の長男に、言った。
「きょうから給食だけど、挨拶だけして帰っておいで。新幹線に乗って引越しだから」

社長のHさんに、電通のSさんに、若いスタッフに、申し訳ないと思う。
流通業ナンバー1ダイエーの圧倒的なCM本数とオンエア量が、私を待っている。
頑張れば、いい仕事ができる。それを誰かが認めてくれる。縁が生まれ、恩になる。
さらに新しい縁が、前の恩を上回って、自分を突き動かす。そんな時代があった。
篆刻は「恩」。 恩知らず、と思われたであろう人間が彫った「恩」の形。

出来たけれど、悲しいCM。(篆刻:悲)

悲

王さんのバットにボールが当たるまでは撮れた。次は、ボールが水しぶきになって、
四方八方へ飛び散るカット。垂直に立てた管の先に360度細かな穴を開けて、
水を噴射する。合成だからブルーのシートを敷きつめる。カメラは、その管の真上、
天井から下向きにセットした。そう、例の15倍のハイスピード。修理済で満を持す。
カメラが回る。水が噴き出る。「ウィーーーーーン」を聞き終わって、皆が見上げる。

「カメラ、オーケーです」 「水の方もオーケーです」 「ハイ、本番いきます」
カメラが回る。水が噴き出る。「ウィーーーーーン」 皆が見上げる。
カメラが回る。水が噴き出る。「ウィーーーーーン」 皆が見上げる。
カメラが回る。水が噴き出る。「ウィーー・・・」 皆の耳はダンボで、目はトンボ。
と、パラパラパラッと黒いものが降ってきた。カメラが巻き込んだフィルムの破片だ。

それでも何とか使えそうな水滴カットを探して、王さんの打撃カットと合成する。
打ったボールは消えるから、ひとコマひとコマ、ボール1個分の背景を移植した。
そうして完成したCMは、読売新聞が日曜版のコラムでも紹介してくれた。
しかし、私のいる関東で見ることができない。流すのは、ペプシが強い中部地区だけ。
家族は犠牲にするが、テレビで見られる仕事のはず、なのに。これは、悲しい。

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