2006年11月

ミルキーは、道にある。(篆刻:道有)

道有

私が生まれて19歳までいた鶴見の家は、京浜第二国道の「めがね橋」に近かった。
フランク永井さんが、「夜霧の第二国道」という歌は、羽田空港に向かう車から
その橋を見て着想したと話すのを、ラジオで聞いた。私にとっては、ご当地ソング。
競輪でスッテンテンになった父は、家具職人に戻った。家具といっても、木製の
ショーケースやカウンター。図面をもらいに、横浜市内まで第二国道を自転車で行った。

ある夜、帰ってきた父は、大きなダンボールを抱えて、得意満面だった。
国道で拾ったのだという。家族6人、誰も交番に届けるなんていう気は、毛頭ない。
だって、そのダンボールには「ミルキー」と、くっきり鮮やかに印刷されているのだもの。
開ければ、中にはまさしくペコちゃん、ポコちゃんのミルキーの箱が、ぎっしり。
みんなで欲しいだけ頬ばって、なめて、噛んで、食べて。残りは押入れの特等席へ。

その後数日、我が家は欲しいときに欲しいだけミルキーが食べられる天国と化した。
篆刻は「道有り」。前回の「無駄」とセットで彫った、「無駄に道あり」の古い習作だが。
日本中が食べもの、甘いものに飢えていた時代の、道にミルキーありという話。
その後、ミルキーウェイは天の川だと聞いても、京浜第二国道としか思えなかった、
というのは冗談だけど。冗談ついでに「景品第二国道」・・・

消えた大金は、無駄か。(篆刻:無駄)

無駄

私の父は、しがない家具職人ではあったが。しかし、終戦直後はこれが身を助けた。
木を削って、小さな下駄やポックリを作る。鼻緒は母の襦袢をつぶして作る。
これが、進駐軍のGIによろこばれた。母の田舎からは、米や小豆(あずき)が届く。
父の友人には船員が多く、腹巻に砂糖を隠して持ってきてくれる。ぼた餅を作る。
それを駅前に持っていけば、飛ぶように売れた。だが、しかし・・・

私が横浜のはずれの鶴見から、市内に出た初めての記憶は、母に手を引かれて
父を訪ねたこと。行き先は警察の留置場。闇ドルを持っていることを密告された。
仲間に妬まれるほどに、お金を持っていたのだろう。家の仏壇は小さかったけれど、
それでも、その引き出しに現金があふれんばかりに入っていた記憶は鮮烈だ。
だが、しかし、我が家がその頃、裕福だった記憶は、まったくない。なぜなら・・・

父は毎朝、鞄にお金を入れて出かける。行き先は、花月園という競輪場。
夕方には、決まって空の鞄をさげて帰ってくる。そんな日がいつまでも続く訳がない。
「あのお金で土地を買っていたら」というのが、母のグチの決まり文句だったが。
本当に、あのお金で土地を買っていたら、私たち家族は、幸せになれただろうか。
本当に、あの大金は無駄だったのだろうか。篆刻は「無駄」。答えは、ノー。

ゆえに、我あり。(篆刻:我)

我

先週の土曜日で、あのNHKの「チャングム」が終わってしまった。
もう3回目だかの再放送らしいが、途中から見て、夫婦ともども、すっかりはまった。
日本人が忘れている何かを良きものとして思い出させる「韓流」に、はまった。
最終回でチャングムが、娘を叱って、その足をムチで打つシーンがあった。
そういえば、私も母に、こっぴどく叱られた。小学生の低学年の頃かと思うが。

お年玉かなにかで、財布を買った。うれしくてしかたない。駄目だと言われていたが、
ポケットに入れたまま外で遊んだ。帰ると、財布が無い。役目の風呂焚きをしながら、
頭をかかえていたら、母が来て、財布を目の前に出した。友だちが拾ってくれたらしい。
外に持って出ないという約束を破った。さらに、落としたことも隠した。ふたつの罪で、
さんざん絞られた。仕上げに、手の親指と人指し指の間にお灸をすえられた。

まだ食料の乏しい時代だった。白菜の漬物を白いご飯に巻くだけでも、ご馳走だった。
初夏の朝、その年初めてのキュウリの漬物。他の兄弟が来る前に、ぜーんぶ食べた。
皿に出した、それしかないキュウリだった。1時間ほど叱られて、学校に遅刻した。
篆刻は「我」。ノコギリ状の戈(ほこ)の形。家具職人の親父の商売道具のノコギリで、
指を落とされんばかりに叱られて、ゆえに「我」がある。我の良し悪しは別として。

日本が、ガタピシしてる。(篆刻:我他彼此)

我他彼此

日本のあっちこっちが、ガタピシしている。・・・と書き始めて、その後が続かない。
ただ考え込んでいてもラチがあかないから、とりあえず、篆刻の「我他彼此」。
自分と他人、彼岸の彼である向こうとこちら。自他の差別や対立をいう仏教用語だが、
騒がしいこと、戸の建てつけが悪いことをいう「ガタピシ」の語源でもあるらしい。
我が古農家の建てつけが悪く、隙間風が寒いなど、取るに足らないことであって・・・。

以前話した「両忘」は、この我他彼此を忘れようという言葉だったのだけれど。
我と他はある。彼と此もある。しかし、その立ち位置、間合いが乱れてはいないか。
また昔の話で恐縮だが、私が小学生の頃。向かいのKさんの家には電話があって、
我が家にはない。で、電線を渡して、うちに電話がかかったら、ブザーで教えてくれた。
呼び出し電話というもの。名刺の電話番号の前に(呼)と書くのは珍しくなかった。

そのうち、Kさんにはテレビが来た。こっちは、まだ。で、Kさんの夕食が済んだ頃、
ブザーが鳴る。「テレビを見においで」という合図。これが、実に待ち遠しかった。
Kさんは公設市場で繁盛する乾物屋さん。こちらは、しがない家具職人。
でもKさんは恩を着せることなど一切なく、こちらも卑屈になったことはない。
電線は、近所の誰がみても上から下に流れていたが、ガタピシなどしたことはない。

砂の味は、かんばしくない。(篆刻:芳)

芳

大学の試験の話になったついでに・・・。風邪で試験場を間違えなければ、
試験なんて簡単でしたよ。(いまだにAからZまで言えないフランス語を除けば)
生物の場合は、ノート持込み禁止。でも平気、問題は事前に教えてくれるから。
その問題とは、「七味唐辛子の成分」。答えは「唐辛子、山椒、ゴマ、麻、
ケシ、シソ」の6つの実。あとひとつは「陳皮(ちんぴ)」、柑橘類の皮ですね。

では「白コショウと黒コショウの違い」は、いかが。「黒は、実が熟す前に摘み取り、
皮つきのまま乾燥させたもの。白は、完熟の実の皮をむいて、乾燥させたもの」
これはちょっと難しかったけど、「ミカンの輪切りの絵」なら、アホでも描ける。
で、試験がなくて、課題の採点があったのが「文章講座」。コピーライターを目指して
いたから、気合を入れた。最初の課題で、「砂を噛むような思いをした」と書いた。

これが添削で、大目玉。本当に砂を噛んだのか。砂を噛まず、ようなとは何事かと
えらい剣幕。しかし、でも、だって。アサリの味噌汁で、ジャリっとしたことは数知れず。
鉄棒で、頭から落ちて、口に砂が入ったこともある。「砂を噛みました」と反論するのも
馬鹿らしい。すっかり気が抜けたから、成績も芳(かんば)しいはずがなく、可。
篆刻は「芳」。こんな馬鹿な話に使うのは惜しいほど、芳しい作品なんですけど。

忘れたいけど、忘れられない。(篆刻:忘)

忘

白川静先生が、大学紛争のときに、「何人たりとも私の学問を阻む権利はない」と、
ピケを物ともせず、自らの研究室に通い続けたのは、有名な話だが。
こっちは、私の大学での粗末なお話。4年後期の試験、世界経済史。ノート持込み可。
授業に出て、ノートもちゃんととっていたので、楽勝のはずだったが。そのノートを貸して
試験場で返してもらうはずの友人T(私の友人には、Tが多い)が、来ないのだ。

また遅刻か、と歯ぎしりしたが、遅刻も時間切れ。なすすべも無く白紙で提出する。
Tの行きつけの雀荘に行くと、彼がいて、麻雀の真っ最中。「おい、どうしたんだよ」
「お前こそ、何で試験場に来なかったんだよ」。やっと、自分が試験場を間違えたことに
気がついた。風邪で熱があったとはいえ、あまりに粗忽。就職が決まっていたが、
恥ずかしながら事情を話して、週に1回会社から授業へ通うことを許してもらった。

ところが、もうひとりドジがいて、レポート提出で救済され、かろうじて卒業できた。
しかし、もう忘れたはずなのに、試験場が分からない、そもそも出席日数が足りない、
とキャンパスで途方に暮れる夢を見る。自分のミスなら、夢と冷や汗で済むけれど。
学校が定めたカリキュラムでは卒業不可という、受験至上主義には亡国の予感。
篆刻は「忘」。「亡」は、死者の脚を曲げた形。曲げてレポートで救済、というお粗末。

眞人を、悼む。(篆刻:眞)

眞

白川静先生が亡くなってしまった。平凡社の『字統』、1994年3月10日初版第一刷。
これは、私にとって単なる書物文献ではない。私はどんな漢字を彫るときも、
必ずその項を読んで、その文字の起源と生い立ち、変遷を心に叩き込む。
そうしてそれから、私なりの形にしていくのが基本動作。だから私の篆刻歴の
後半を導いてくれた先達で、いつかともに歩む同士になった。その親が、亡くなった。

だから、白川先生は『篆からの贈りもの』の後見人かのように、勝手に考えていた。
見ず知らずの私の本を読んでくださるかはともかく、お手元に届けたい、と。
まず平凡社に送り、平凡社から先生にお渡しいただくのが筋ではと、考えていた。
かくしゃくたる先生が病床にあるなど思いもしないから、急ぐことはないとも
思っていた。うかつだった。せめて、その手で触れるくらいは、していただきたかった。

篆刻は、真の旧字「眞」。日経新聞で谷川健一氏も書かれているが、死を意味する
化の初文と首の倒れた形で、死者。もはや化すことがないから、永遠で真実なるもの
の意となった。『字統』には、荘子の「眞人ありて、しかるのち眞知あり」の言葉もある。
後漢の許慎の著『説文解字』を根底から覆して、独自の体系を立てた白川先生は、
許慎先生とどんな話をされているのか。眞人同士の会話が聞きたい。

夜が、暗くした。(篆刻:夜)

夜

篆刻は「夜」。人が横になっている大と月だから、人々がすべて休息する時なのだが、
夜になっても祭事にいそしむこと、ともいう。さて、広告研究会のキャンプストア。
その合宿所になっているお寺には、階段の上にお堂があった。お金を置く聖域で、
一般の部員は立ち入り禁止とされていたから、誰も階段に登ろうともしなかった。
夜は、幹部が会計にいそしむ場所のはずなのだが。それだけでは、なかった、らしい。

1年生が緊張しながら過ごした夏の合宿が終われば、寝食をともにした同士だ。
「俺の腹巻をフンドシにして泳いだ」「打ち上げで、飲んだ酒を鯨のように吹いた」と
武勇伝が残り、仲間意識も生まれる。と同時に、実は・・・という噂も流れはじめた。
夜、あのお堂に、海岸にいた女の子が出入りしていた、という噂、なのだが。
美しい青春の思い出・キャンプストア、神聖で侵すべからざるお堂が、崩れた。

我々が進級して部の運営に当たることになって、まずキャンプストアをどうするか、
という議論になった。廃止と継続が対立したが、廃止派の広告研究に専心すべき
という正論に、継続派は勝てるはずもない。キャンストの魅力だけで入部した数人は、
退部した。キャンストで親友となり、キャンストの店長と目されていたTも、去った。
陽光の下で輝くはずの彼らの青春を、いささか暗くしただろうことは間違いない。

それは、朝のぬかるみだった。(篆刻:朝)

朝

篆刻は「朝」。草の間に日が現れ、なお月が残るという風景画のような漢字。
月の部分が水の文字もあり、こちらは海の満潮、汐は干潮を意味するらしい。
・・・という前振りで、千葉の勝山海岸での海の喫茶店・キャンプストアの続きです。
広研の夏の合宿だから、お寺のおんぼろ離れが常宿。台所付きの大部屋ひとつ。
女子部員もいたけど、いっしょにザコ寝でもないないだろうし。記憶はおぼろ。

朝は起床後、すぐに全員で海岸までランニング、店の前で体操。走って帰り、洗面。
そこで事件が起きた。女子部員のYさんが、皆が洗面する井戸のぬかるみに
コンタクトレンズを落とした、という。手の空いた者が総出で探したのだけれど、
なにせ泥水のなか。仕方がない、あきらめて食事にしよう、ということになったが。
男子部員の先輩Nさんが探し続けた。食事もせずにか、食事後か。記憶不確か。

しかし、Nさんが探し続けたことは事実。そして、ついに見つけたのですよ、レンズを。
もう昼に近かったと思うのだけど、キャンプストアは半休したのかな。記憶、なし。
NさんとYさんは同学年、同学部だったから、それを機に親密になったのは、
しごく当然。卒業後、何年もたたずに結婚されたという話を聞いたのも、確か。
朝のぬかるみから始まったおふたりの道程が、ぬかるまず平坦であることを、祈る。

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