2006年12月

自分を見る、自分。(篆刻:正見)

正見

私は、将棋の金と銀の違いが覚えられない。野球のボーク、サッカーのオフサイドが
分からない。サッカー選手もほとんど知らないが、川崎フロンターレの中村憲剛選手は、
スタンドの上から自分の状況を見渡すような能力を持っている、らしい。
さて、私が小学生の4、5年の頃のこと。その土曜日は、家に早く帰っていた。
家の上の道から、同級生の声がした。「先生が、呼んでいたよ。学校に来なさいって」

担任の女の先生は言った。「先生はね、あなただけの先生じゃないのよ」
小学校の休み時間、外で遊べない日などは、みんなで先生を囲んで、
我勝ちに「センセ、ね、聞いて」というのは、よくある光景、のはずなのだが。
私の目は、潜水艦の潜望鏡が、だんだん水に入っていくような具合になった。
その日から、私の中には私を見つめる、もうひとりの私が生まれた。

と聞いて、ええ?と驚く人は多いだろうな。「お前ほど空気の読めない人はいないよ」
「よそ様のブログにちん入して、コメントのいい流れをぶち壊しているじゃないか」
で、篆刻は、旧作「正見」。50年後のいまも、もうひとりの自分が自分を、見てはいる。
しかし、正しく見ているかどうかは、別。これで、もうひとりの自分がいなかったら、
私はどうなっているのやら。うーん、反省にも言い訳にも、なっていないなあ。

和食の戦いと、平和。(篆刻:和)

和

農水省が世界各地の「正しい和食」を提供する店の認証制度を考えているそうだ。
で、思い出したのが、ずっと昔、ロケで行ったハワイの寿司屋でのこと。
日本人の板前さんと、意気投合。酔いも手伝って、オモロイことをやりたくなった。
大阪の中華海鮮の店で、活き海老を紹興酒で酔わせて食べたことがある。
ハワイでもやろうじゃないかと。ブランデーで酔った海老も、なかなかに旨かった。

これで終わっちゃ日本男児の名折れと(あきらかにハイですね)、次の一手は。
海苔巻きの海苔の代わりにネタを四角く敷いて、細いシャリを巻いてみようという案。
板さん、目を輝かせて、あらゆるネタを並べたてて、「さあ、どうだ」と自慢顔。
その後生まれたカリフォルニア・ロールなど、尻尾をロールして逃げ出すような勇姿。
味などとんと記憶にないが、お大尽遊びの醍醐味を知ったような気にはなった。

さんざん飲んで食って、遊ばせてもらって、さあ、お勘定。日本人の仲居さんが、
レジで叫ぶ。「海老1匹だけじゃないの!」 「余計なこと言うんじゃねぇ!!」
篆刻は「和」。禾(か)は軍門に立てる標識。口は、和議の誓いを入れる祝器「さい」。
食に限らず、冒険、挑戦はその世界の和を乱すが、創造は破壊から生まれる。
さて、私の「シャリのネタ巻き」は「正しい和食」なのか。農水省の答えが聞きたい。

虹は、五色か、七色か。(篆刻:虹)

虹

北海道のMさんのブログで、山本 涼さんという方の句集『虹の紅』を知った。
  まず影の歩み入りける月の庭
という句に惹かれた。日経新聞で坪内捻典さんが、「俳句は大衆の文学といわれるが、
実際は結社的隠語の世界」と書いていたのに大きくうなずいたところだったので、
即座にアマゾンで注文した。俳句詠みにしか分からない「隠語」は、少なかった。

山本さんは、長谷川総子さんというコピーライターの大先達だった。きっと才気あふれる
名コピーを書かれただろうと思わせる句が多い。いいな、好きだな、分かるなと感じる
句を書き出したら、35点になった。さて私がいちばん好きな句は、と読み返して、困った。
迷ったあげく、俳句の門外漢、単なる不特定多数の私が本当に好きだと言える俳句は、
私が好きなキャッチフレーズのタイプと同じだ、ということに気づかされた。

  乳母車夏野率ゐてをりにけり
という、アサヒカメラの月例特選のような句はすごいと思うけれど、私のいちばんは、
  半分は空気でありぬ春キャベツ
篆刻は「虹」で、「工」は左右に反りのあるもの。オランダでは虹は五色らしいけれども、
虹は七色、俳句もある、そんな日本に生まれてよかった、と心から思ったのでした。

躍りあがりたいような、涙。(篆刻:躍)

躍

私は友人から「メールの返事が速い、それだけ暇なのか、情報に飢えているのか」
と笑われる。確かにそうかもしれない。だから郵便が来るのも楽しみだ。
だいたい午前10時半前後。2階のこの部屋にも、郵便屋さんのバイクの音が聞こえる。
きょうも、その時刻だった。いつもはカミサンが取りに行くが、外出していたので、
私がポストを開けた。何通かの書状の上に、上品で美しい罫線のはがきがあった。

「古都の冬はことに冷える日々です。
このたび、平凡社を通して御著『篆からの贈りもの』いただきました。
印の姿もよく、また添えられたコピーの美しさ、感心しながら見せていただきました。
父の説が、あちこちに散りばめられ、それも楽しく拝読。
さっそく父の霊前におかせていただきました。ありがとうございます。御礼まで」
 
お名前は「津崎 史(白川静・長女)」だった。読みながら坂をあがり、庭に立っていた。
はがきを両手にはさんで、西の方角を拝んだ。躍りあがりたいようなよろこびに
ひたりながら、涙がこぼれていた。篆刻は「躍」。『字統』によれば、翟(てき)は、
鳥が羽を動かして飛び立とうとする形。霊となられた白川先生は、どこにでも来られる。
いい加減な篆刻なら、そばでギロリと睨まれる。私の篆刻も飛び立たねばならない。

気の中に、神あり。(篆刻:気中神)

気中神

白川静先生の京都でのお別れの会には、記帳だけでもさせて欲しかったが、
その12月7日は、すでに旅行と決まっていて、日程を変えることができなかった。
8日の夜帰ると、一通のはがきがあった。平凡社の白川編集部の方からだった。
『篆からの、贈りもの。』の本を先生にお渡しできなくなったので、せめて平凡社の
『字統』ご担当の方に、とお送りした。それへの、ご丁重な返事だった。

「白川先生のご自宅にお参りに伺う機会がございまして、ご霊前にお供え
いただくよう、ご遺族にお預けいたしました」という、まことにありがたいお言葉。
続いて「私どもには、先生のお原稿でこれから本にするものもございます」とある。
まだまだ本になっていない原稿があることに驚いた。先生がはじめて一般書として
『漢字』を書いたのは、昭和45年、60歳。いまの私の年齢だったという。

86歳のときに完成した『字統』『字訓』『字通』の3部作は、実に4000ページ超。
文芸春秋に宮城谷昌光氏が「百歳をこえぬうちに逝去することはあるまいと、
私は安心していた」「博士が堅持している活力が尋常ではないことを知っていた
からである」と書かれている。篆刻は「気中神」。ずっと前の「心中仏」との対だが、
まさに白川先生は気の中に神を宿していたのではないか。そうとしか思えない。

謙虚に、受けていただいた。(篆刻:虚受)

虚受

車の事故というのは、大きくても小さくても、当てても当てられても、実に後味が悪い。
が、きのうは、そう言い方は不謹慎に決まっているけれど、むしろ爽やかだった。
11月にカミサンも還暦を迎えたので、母の見舞いを兼ねて1泊旅行をした。
空港からレンタカーで1日目は快調。2日目のきのうは、ある名刹を訪ねようとした。
駐車場に入るために、少しバックしたら、ゴンと鈍い音。後ろには大きな車がいた。

こちらはフィット、あちらはパジェロ。フィットは後ろドアがへこみ、バンパーもずれた。
降りてきたのは、そのお寺の若いお坊さん。バンパーが少し傷付いただけだから
構わないとおっしゃるが、警察の検証がないと保険が効かないので、パトカーを待った。
昼前でもあったから、「この近所に、生ガキのおいしい店はありませんか」と尋ねると、
横からカミサンが「お坊さんに、そんなことお聞きするなんて」と、気をつかう。

お坊さんは「このあたりは、どこもおいしいですよ」と、門前へ気配りのお答えに続いて、
「肉でも魚でも、お布施であれば、何でもありがたくいただきます」とのこと。
篆刻は「虚受(きょじゅ)」。何事も謙虚に受け入れるべし、という意味ではあるけれど、
私の車まで受け入れてもらったのには、大いに恐縮するばかり。お寺には大事に
ならなかったお礼参りをして、その後すぐ、生ガキをしっかりお腹に受け入れたのだった。

違いがあるから、互いがある。(篆刻:互)

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大学時代の友人Tの息子さんは、工学部を出たエンジニアなのだが、競輪が趣味で、
親子で花月園競輪にも行ったという。前に書いた元電通のSさんも競輪が好きで、
私の父が花月園で丸裸になった話を楽しそうに聞いていた。競輪は動力が人間だから、
データによる予想を超えた、独特の面白さがあるらしい。私の小学校は花月園から
遠くない。ある子の筆箱には、短い赤鉛筆があふれていた。親が競輪の予想屋だった。

小学校には、予想屋の子もいれば、朝鮮の子もいた。私の家は丘の上にあったが、
向かいのB29が落ちたという崖下の窪地には朝鮮の人たちの集落もあった。
ガキ大将だった兄は小さい私をおぶって、下の子供たちとケンカで石を投げあった。
帰った家に、下の女ボスが仲間を引き連れて怒鳴り込んできた。石はお互いだが、
上の誰かがガラスを投げた、汚いではないかという抗議。敵ながら天晴れだった。

小学校では、給食費を滞納する子もいた。知恵遅れの子もいた。ケンカもあった。
しかし、いま言うような「いじめ」の記憶は、まったく無い。そして、それから、ざっと50年。
お互いの関係を、いじめという陰湿な方法でしか確かめられない子供がいるという。
篆刻は「互」で、縄を巻いた器の形。縄を交互に巻くことから、交互、相互の意味となる。
甲の縄、乙の縄があっての互い。徒競走でも順番がない妙な平等教育が、そうしたか。

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