2007年3月

ツバメ、来る。(篆刻:黄燕)

黄燕

ハコベ、ナズナ、イヌノフグリ、タンポポ、ツクシ、セリ、フキ、キランソウ、
ムラサキケマン、スズメノカタビラ、ヒメオドリコソウ、ホトケノザ、
ヤマネコノメソウ、クサノオウ、キンポウゲ、レンゲソウ、ハナニラ、シバザクラ、
スミレ、パンジー、オキザリス、セイヨウサクラソウ、スイセン、クロッカス、
ムスカリ、クリスマスローズ、ハナダイコン、ショウジョウバカマ、カタクリ。

イカリソウ、バイモ、カンアオイ、ワサビ、アシビ、レンギョウ、ジンチョウゲ、
ユキヤナギ、ヤナギ、ボケ、ミモザアカシア、ウメ、カワヅザクラ、ケイオウザクラ、
シデコブシ、トサミズキ、アオキ、シタクサ、ビワ、ウグイスカグラ、ブルーベリー、
ニワトコ・・・こんなところが、いまの我が家の庭に咲いている草や木の花たち。
昨日の日曜、自治会長の引継も終わって、さあ、今日から我が春だという朝。

何とツバメのご来訪。縁側の軒下をのぞき、玄関のひさしをうかがっていった。
いくらなんでも、ちょっと早過ぎでしょ。篆刻は、俳人中井「黄燕」先生の印を
お借りした。くちばしが黄色いから、とご謙遜の俳号だが、70歳を過ぎても
乗馬が趣味のお医者さん。黄燕先生、「燕来る」は晩春の季語でしたよね。
  来ることの嬉しき燕きたりけり 石田郷子

ただ、生きて在れ!(篆刻:LET IT BE)

LET IT BE

「なんにも書くな。なんにも読むな。なんにも思ふな。ただ、生きて在れ!」
先日酔った勢いで買った太宰治の古本をたまたま開いたら、『めくら草紙』という
短編の冒頭にこんなことが書いてあって、「え、私のブログへのコメントかな」という
妙な感覚になった。行きがかりで、その全集第一巻「晩年」を拾い読みしたけれど。
読ませる力に引きずられてしまうが、どうも私は太宰を好きになれない。

吉本隆明さんは、太宰を「好き嫌いだけで判断してはいけない大変な人」と
おっしゃるけれど。自殺未遂を何回も重ねる。そのたびに女性を道連れにする。
往生際が悪い。死ぬ、死にたい、死んでやると書き続けて、それを生業にするのは、
狼少年より悪質な気もする。そういえば芥川賞がとれないのを根に持っていたと
読んだことまで思い出して、ますます好きになれない。体質的なことかもしれない。

マクドナルドの藤田田さんから、「太宰とは、入水の前夜にバーで一緒だった」という
話は聞いた。田さんは、自殺を明日に控えた態度ではないと、足をすべらせての
事故死説をとっていたらしいが、まあ、田さんも人が悪い。巧言令色が鉄の原則の
太宰が、それでは格好がつかないけれど、真実は闇、いや水の中。
篆刻は、「LET IT BE」。私の好きなビートルズによる「ただ、生きて在れ!」

夢のように、死んで。(篆刻:夢死)

夢死

もう少し、池田晶子さんの『人生のほんとう』から。
「死んだ人が悲しいと思っているかどうかはわからない。死ぬのが本人にとって
悲しいことなのかどうか、われわれにはあくまでもわからないんですよ。
だって、われわれは死んだことがないわけですから。」
それから1年と少しの死。彼女は、死を悲しいと思わなかっただろうか。

吉本隆明さんが『真贋』のなかで、「瀬戸内寂聴さんが死は怖くないとあちこちで
話しているようだが、そんなのは信じない」と言っている。死んだこともないのに、
そんなことは言わない方がいいと思うよ、という感じで。確かにそうですね。
池田さんが好きだった禅にも「前後際断」の言葉があるように、現在だけが在る。
先のことなど分からない。自分が死ぬときのことなど、分かるわけがない。

篆刻は、「酔生」に続く「夢死」。酔の卒は、死者の衿の結びで霊が迷い出るのを
防ぐこと。夢は呪術で夢魔により人の心を乱す巫女の姿。死は、残骨と拝む人の形。
「酔生夢死」とは、酒に酔ったように、夢を見ているように一生を過ごすこと。
何もなすことなく、むなしく一生を終わること、との解釈もあるけれど、
業績も財産も持って行けないあの世であれば、酔生夢死で御の字ではないか。

酔うように、生きて。(篆刻:酔生)

酔生

新聞で週刊誌の広告を見て、驚いた。え、池田晶子さんが死んだ?
検索したら、3月2日に訃報があって、2月23日に腎臓がんで亡くなっていた。
私が彼女の『人生のほんとう』を読んだのは、去年。2006年4月のあとがきには、
04年4月から05年12月までの「人生を考える」という講演6回をまとめたとある。
常識、社会、年齢、宗教、魂、存在のテーマで人生とは何かを語ってくれている。

帯には「大事なことを正しく考えれば、惑わされない、迷わない。」とある。
『現在に死は存在していないわけです。生きているわけです。でも死が存在して
いないのだから、じつは生も存在していない。生でも死でもなく、ただ存在して
いるのだ、ということになってしまいます。絶対的現在ということに本当に
徹底すれば、過去の後悔、未来の憂いということがなくなるのでしょう。』

そして最後は、『私自身は、なんで在るんだかわからないこの奇跡的な存在、
つまり人生を可能な限り深く味わってみたいという気持ちを持っていますが、
これをまた裏返すと、そんなに気張らなくてもいいのかなとも言えるわけです。(笑)
べつにいいのかな、なんでも。なんでも同じじゃないか・・・・・・まあ、面白いですね、
人生があるということは。』で終わる。篆刻は「酔生」。当然、次は「夢死」です。

鷹、空に揚がる。(篆刻:鷹揚)

鷹揚

疲れすぎて浅い眠りから醒めた朝。離れに行くと、毛布の中は空だった。
鷹は歩いてどこかにもぐり込んだか。いや、廊下の奥のかごの上にとまっていた。
首を後ろに向けて、しっかと私を見つめる。確かに、生き返ったのだ。
新鮮な空気を吸わせてやろうと、抱いて庭に出た。腕の上で、おとなしい。
猫が膝に乗ってきたが、おびえる様子もない。濃い黄色の眼には力があった。

もしかしたら飛べるのではないか。鷹を腕に乗せて、高く空へと伸ばす。
体は腕にあずけながらも、首を立てて、空を見ている。腕がしんどくなった頃、
鷹は飛び上がった。が、上の道沿いの電線にとまったままで、動かない。
それで力を使い果たしたのなら、と心配だった。カミサンと鷹を見上げながら、
道端で朝食を食べた。再び力を蓄えたのか、鷹は飛び去っていった。

篆刻は「鷹揚(おうよう)」。鷹が空をゆったりと舞うように悠然としていること。
鷹狩は「うけい(ひ)狩」と言って、神が願いに応じるか否かを問うものだから、
「応」の旧字に鳥と書く。鷹は神の鳥なのだ。その鷹も、幼鳥ながら偉かった。
私を信じきって、私の気を受け止めて、それに応える意思として、蘇生した。
その後、カミサンは、夕方の犬の散歩で、あの電線にとまる鷹に何度か会ったという。

鷹を抱いた、夜。(篆刻:辛抱)

辛抱

5年前の4月末、まだ肌寒い夜。犬の散歩の帰り、その鳥は道に落ちていた。
周りに、血が飛び散っている。暗闇で電線に激突したのか、どう見ても瀕死だった。
抱いて帰って、猫を避けて、離れにこもった。サシバという鷹の一種のようだ。
ちょうど拳からひじに収まる大きさ。30センチほどだから、まだ幼鳥なのだろう。
鼻はひしゃげて、眼球の周りにも血がにじんで輪になっていた。

鋭い爪を私のシャツを通して腕に食い込ませて、かろうじてぶら下がる。
痛いけれど、鷹の生きている証しは、その爪の力にしか残っていないのだから。
左腕にしがみつかせたまま、右の手のひらを包むように当てた。
無心で、静かに深く腹で息をして、右手から鷹の体に気を送り続けた。
これを続ければ、きっと鷹は生き返るだろう。根拠は無いが、確信はあった。

しかし、それを3時間以上も続けただろうか、私は憔悴しきってしまった。
鷹を毛布にくるんで離れに残し、母屋のベッドにもぐり込んだ。
篆刻は、「辛抱」。辛は、握りの付いた大きな針で、神事の入墨などに使う。
爪の痛さは辛抱できたが、このまま気を送り続ければ、自分の命が枯れる。
これで鷹が死んだとしても、もう仕方がないのだと思った。

車も、変な気をおこす。(篆刻:変)

変

エレベータに悪意を持って乗ると、そのエレベータが異常な動きをした、という。
シンドラー製の話ではなくて。その悪意とは何だったかを忘れてしまったし、
誰の本で読んだかも記憶がない。グーグルで、じたばたして、やっと思い出した。
ライアル・ワトソン博士、『生命潮流』の作者だ。ワトソンの話なんて眉唾、という方も
おいでだろうから、代わりに私の信頼できる友人M氏の体験談を一席。

M氏が、あるご婦人とドライブに出掛けた。運転は彼だが、しばらく走ると止まる。
彼女に運転を代わると、すこぶる快調。で、再び彼が運転するのだが、また止まる。
ボンネットを開けても、問題らしきことはない。それが続いたので、JAFを呼んだ。
念入りに調べてもらったが、分からない。その後も、彼だとストップ、彼女なら快調。
ドライブは中止して彼女の運転で引き返したいが、高速道路で止まっても困る。

結局、レッカーを頼んで、助手席に乗って帰ったという話。「車、故障だったの?」
「その後何もなく運転している」 「誰が?」 「彼女が」 「彼女のクルマ?」 
「彼女の、亭主のクルマ」 「じゃ、車が嫉妬して・・・」 「と、しか考えられない・・・」
篆刻は「変」。旧字は變。誓いの言の両側は糸飾りで、叩く意味の攴(ぼく)を
加えて、破棄、変更の意味となる。この場合は、糸の部分を車か女に変えるべきか。

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