2007年6月

紫陽花を、グーぐる。(篆刻:紫陽花)

紫陽花

梅雨の晴れ間。庭の刈りそこねた雑草をかき分け、クモの巣を払いながら、
メモ紙に正の字を書いていく。全部を足したら、109にもなって、どっと汗が出た。
ガクアジサイ、ヤマアジサイ、コアジサイ、七段花、アマチャ、柏葉アジサイ等など。
こんなにアジサイばかり、100本以上も植えて、どうするんじゃい。カミサンの
アジサイ好きには閉口するが。それにつけても、アジサイはなぜ「紫陽花」なのか。

以下、検索結果。漢字の紫陽花は、白楽天がある花を見せられて「紫陽花」と
詩に書いた。それを日本の平安時代の学者がアジサイに当てて、広まった。
アジはアツで集まること、サイは真藍(サアイ)で、青い花の集まり。万葉集では
味狭藍、安冶佐尉と書かれた。芭蕉の句は、「紫陽花や 藪を小庭の別座敷」。
学名のハイドランジアは、ギリシャ語の水と容器で、水を大量に吸うから等など。

だが、私が知りたいのは、崖や石垣に、なぜアジサイが自然生えするのか。
これを「アジサイ、自然生え」とぶつ切り単語で検索する限り、アジサイとビワの
実生の話だったりして、「アジサイの自然生え」は、どこまでも五里霧中。
文章で意図をくみ取ってくれる検索法「パワーセット」が実用化されるまでに、
我が家のアジサイは、200本くらいに増えてしまうのではないか。

工夫は、普段から。(篆刻:工夫有平生)

工夫有平生

このブログは、自由律俳句(季語と五七五にとらわれない)の巨匠であるK氏が、
時々覗いてくれているようだから、無分別の続きを。篆刻の「工夫有平生」は、
これまた非力で情けない大昔の作ですが、工夫は普段、日常に行うべし、という
俳聖松尾芭蕉のありがたいお言葉。それに続く言葉が「臨席無分別」で、
席に臨んでは無分別であれ。席とは、句会とか、そんな場所なのでしょうか。

私は、句会らしきものは1回しか経験がないけれど。広告界で、我々制作者が
クライアントに企画を提案するプレゼンテーションも、その席と言えるのでは。
一時はプレテと言われたりしたが、最近はプレゼンという一般用語としても
定着したようだ。プレゼンといえば、創業期の日本マクドナルドの藤田田さんに
数年間、毎週水曜日の午前中、すべての制作物を私ひとりでプレゼンした。

相手は怪物、こちらは27、8の若造。何をどう突っ込まれるか、予想もつかない。
対策は、普段からマクドナルドのことを自分がどれだけ考えたか、しかない。
そして、田さんの前では無分別。何を聞かれても、間髪をいれず答えるだけ。
それで田さんは安心する。私の自信にもなった。それ以来、私はプレゼンで
あがったことがないが。「臨席無分別」の篆刻は、工夫が足りず、お見せできない。

別々で、見分けられない。(篆刻:無分別)

無分別

このブログは、おのれの恥を承知で世間にさらしているものなのだけれど。
前のダンボールコンポストの話で、「微生物の分解、発酵には水分が必要と
言われた」と、こともなげに書いた。実はこれ、私には大ショックだったのだ。
なぜなら、私はある企業の環境広告シリーズを制作している。その商品に、
土に還るポリエステル繊維があって、新聞広告には、こう書いている。

「水によって加水分解され、さらに微生物によって生分解される」と。
それなのに、生ゴミで堆肥をつくろうとして、水のことなど考えなかった。
日本は、温暖化対策で言ってること、やってることがバラバラと書いたが、
そっくり自分に返ってきた訳だ。日本もそうだが私だって、言うことと
やることがバラバラなんです、と居直ろうと思っていた、その矢先・・・

これまでのブログで、篆刻の「光」を2回使っていたのに気がついた。
他も見直したら、「無駄」も「道有」もダブっている。新しく彫り直したり、画像を
入れ替えたりで、1日つぶれた。(もうないだろうな) 篆刻は、恥かきついでに
旧作「無分別」。本来は、主観・客観を離れた、真実の知恵という意味だが、
私にとっては、言うこととやることが別々で見分けもつかない、という意味。

蛍を、そのままに。(篆刻:無為天成)

無為天成

蛍の話をしたすぐ後に、新聞に『ホタルの放流「極力行わず」』の記事があった。
蛍の愛好家や研究者でつくる「全国ホタル研究会」。その6月の大会で、
指針が採択されたという。記事の最後には『会長は「蛍を増やせ増やせと
突っ走ってきたが、一度立ち止まり、周辺環境やほかの生物のことも考えたい」と
話している。』とある。早速、ホームページでその指針を読んでみれば。

蛍の幼虫は肉食性で、食物連鎖の上位にあるから、カワニナなど餌の生物群を
激減させるなど生態系に大きな影響がある。だから、もう放流は極力行わない。
もし放流するなら、その地域や水系にいるものを増殖してにしよう、という。
つまり、ホテルなどがイベントで、遠くから持ってきて放すなどは、とんでもない。
ビオトープと称して、蛍を強制移住させることも、よろしくない、ということだ。

篆刻は、「無為天成」。作為はできるだけ無いように、天の成すがままにが、
私の篆刻の理想なのだが。蛍もまた人為をやめて、天然自然に任せようという
反省の時期にきた。河川の護岸は治水に必要だけれど、コンクリートブロックと
いう無粋で不毛な人為を止めないかぎり、わずかに残った蛍も消滅する。
無為天成とは、努力も工夫もしない、成り行きに任せる、ということではない。

光で、浮世離れ。(篆刻:光彩陸離)

光彩陸離

とうとう奈良も梅雨入りをした。この火曜日の夕方、空気が妙に湿っぽくて、
梅雨が近いことを感じたのだが。その夜、「蛍が乱舞して、幻想的!」という
電話をもらった。すぐに車で向かったのは、京都の県(?)境に近い広岡町。
橋から木津川の方を見れば、葦の中から無数の蛍がわき上がって、悠揚たる
リズムで点滅する。奥行きある闇の深くまで続く光は、夢幻そのものだった。

ここ狭川にもどる川沿いの大きなカーブで、こんどは左右のパノラマを堪能。
しからばと大柳生に向かう谷川沿いを走ってみると、杉木立の隙間にも、
いくつもの光がゆらぐ。小1時間の蛍めぐりを終えて、家に着いたのだが、
家の前の川にもいたことがあるのを思い出して、ハザードを点滅させてみる。
出てきた、蛍が飛んできた。数えれば、4匹。ここにも、まだ蛍はいるのだった。

篆刻は「光彩陸離(こうさいりくり)」。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で知った言葉。
ただ光彩が美しいではなく、竜馬の才気が他に抜きん出ている形容だったと思う。
篆刻を初めて間もない、右も左も判らないころの習作。光彩陸離とは正反対の
出来なのだが、蛍がいる鄙(ひな)じみて、まあよかろうと。この殺伐たる憂き世で、
蛍が見られるという贅沢。この地の自然の豊かさは、まさに光彩陸離なのだから。

ペンタックスに、光を。(篆刻:光)

光(新)

「誰かに持っていただくなら天皇陛下です。置くならダイヤモンドの真ん中に」と、
旭光学の専務は真顔で言った。世界初の完全自動露出一眼レフカメラ、アサヒ
ペンタックスESの新発売広告。1971年(昭和46年)、コピー担当の私は、若干25歳。
結局は、天皇陛下でもダイヤモンドでもなく、スチール写真は電子回路のアップ、
テレビCMは天地創造のようなおどろおどろしい設定に落ち着いたのだが。

言うまでもなく、写真の露出は、レンズの絞りとシャッター速度の組合せで決まる。
このESは、撮りたい写真に応じた絞りを選べば、シャッター速度が電子制御で
無段階に変化する画期的なもの。そもそもカメラの中に電子回路が組み込まれる、
それ自体が驚きだった。これこそが、カメラのデジタル化の第一歩だったのだが、
パイオニアが、その後もリーダーであり続けることが出来ないのは、世のならい。

さて、私がいま使っている一眼レフは、現像屋さんの紹介で買ったフィルム・カメラ。
レンズ2本付きで、35,000円。デジタル・コンパクト・カメラは量販店の展示現品限りで
27,000円。どちらもペンタックス。篆刻は、「光」。頭上に光をいただく神職の姿だが。
HOYAのペンタックスへの株式公開買い付けが、いまだに難航。かつての旭光学に
光は無く、頭を抱える状態が続く。でも、私は、ペンタックスが嫌いじゃない。

田の中の、私。(篆刻:田中)

田中

環境関係の本を何冊か読んだ。その中で、いちばん面白かった本は、
『いちばん大事なこと-養老教授の環境論』だった。何回か、読み返した。
先日の日経新聞の環境特集では、同じような話を「エコの壁を直視しよう」、
「エコの壁を超えよう」と書いておいでだから。この本のタイトルを
『エコの壁』としたらもっと売れたのに、と後悔されているのかもしれない。

養老先生は、人間社会を含んだ自然を、膨大な構成要素が複雑に作用しあう
システムという視点でとらえる。ところが、都市は人間の脳がつくった世界で、
複雑を嫌い、単純化を好む。人間も自然であることを忘れて、「ああすれば、
こうなる」と考えたがる。でも、自然はそうはならないし、理解しきれない。
しかし、里山の手入れなど、自然とつきあうことで、理解を深めることはできる。

で、先生の提案は、なんと「参勤交代」。都会の人に、1年に3ヶ月は田舎暮らしを
(しかも労働を)強制しようという。「田んぼやあぜ道は、自然や社会のシステムを
理解するために不可欠。それ以外、環境問題の真の解決を思いつかない」と
断言される。でも、そうなったら入れ違いで都会に住むのかな、と私・田中は、
青い田を見ながら考える。「いやだ。1年に3ヶ月も都会に住むなんて、いやだ」

環境の日の、机。(篆刻:明窓浄机)

明窓浄机

安倍さんが背伸びして電球型蛍光灯を付けようとしている。奥さんが見上げる。
冬のオーバーを着ての写真に続いて、またもや臭い写真だなあ、と思ったが。
地球温暖化対策推進本部の2色刷り1ページ、「環境の日」の新聞広告だった。
発作的に連載した「私的環境論」で、「毎日、よく書きますなあ」と呆れられた私も
この際、一丁噛まない訳にはいかない。そこで選んだ篆刻は、「明窓浄机」。

我が家は、「明窓」ではない。古農家の良さは、窓ガラスなど磨かなくても
気にならないこと。急にそんなことをすれば、ツバメや猫が激突して、怪我する。
では、机はどうか。これが、見事な温暖化対策なのですね。前に書いた、森林は
二酸化炭素を吸っても出すから、プラマイ・ゼロという話。だが、二酸化炭素を
固定すれば、吸収した状態が続く。家や家具として、千年でも使い続けることだ。

我が家にある机は、熱が当たるコタツ用を除いて、4枚がみな、杉や栃の1枚板。
ほとんどが、畳1枚分。樹齢はみな100年以上。台所の土間のは、どこかの神社の
杉を伐ったもので、穴の後が残っている。そこで、猫が爪磨ぎをする。硬い年輪が
残って、溝になる。そこに、ほこりがたまる。そのほこりを、お茶を飲みながら、
ブラシで掃除する。それで「浄机」になる。まさに美しい温暖化対策なのである。

からみ合う、忍冬。(篆刻:忍冬)

忍冬

我が家の裏手、上の畑に通じる坂の横には、2本の大木があった。
1本は檜。直径30センチもあったが、もし倒れたら家が下敷きになってしまう。
製材所の友人に切って欲しいと頼んだら、よろこんで来てくれた。盛り塩をして、
何やら祈ってから、隣の空き地に倒した。だが、切り口には大きな空洞があって、
材木にはならない。友人はくたびれ損だったが、我が家は安全を丸儲けした。

もう1本は、桐。こちらは根元の穴が見えていて、そこに蜜蜂が巣をつくった。
それを狙ってスズメバチが来る。そいつがカミサンを目の敵にする。市役所に
頼んだら、養蜂のプロが来て、蜂を殺し、多少の蜜も頂いてから、切った。
残った雑木も切りたいが、家の目隠しはいる。そうだ、あちこちに生えるニンドウ、
サネカズラ、アケビ、ムベなど、つるばかりを集めて生垣にしよう、と思った。

篆刻は、「忍冬」。冬でも葉を残して忍び、この季節に香りのいい花を咲かせる。
別名スイカズラは、よく水を吸うからとも、花の付け根の蜜を吸うから、ともいう。
白い花が黄変して、白と黄が並んで咲くので金銀花の名もある。篆刻は、
からむ姿を形にした。生垣も、金網は簡単だが無粋、竹や木は苦労しても、腐る。
手間とコスト、耐久性がからみ答が出ない。まあ、悩む時間が花なのですね。

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