2007年7月

篆刻の、無限。(篆刻:無限)

無限

この頃、私は日に何回か、波打ち際を散歩する。といっても、奈良の東部山間の
ことだから、パソコンの画面上の話だが。バーチャルなお散歩ソフトでもない。
実は、ウィンドウズ用のフォトショップという画像処理ソフト。スキャンした篆刻を
画面いっぱいに拡大して、輪郭からはみ出た印泥(印肉)の油のにじみを、
消しゴムツールでシコシコと消し続けている。これが、なかなかの散歩なのです。

篆刻は、左手の石を右手の印刀で彫るから、いくら真っ直ぐにしても、拡大すれば
手の揺れや石の粒子の大小で、直線にはならない。たとえば海岸線とかシダの葉、
雲の形などは、部分が全体と相似(自己相似)形になっていて、フラクタルと
呼ばれるけれど。このフラクタルには癒しのリズムがあって、拡大した篆刻の
輪郭のウネウネもフラクタルに近い。渚で波の形を追いかける感覚に近いのです。

フラクタルの面白さは、それだけじゃない。たとえば海岸線の長さを測る場合。
物差しの目盛りをどんどん小さくすると大きな目盛りでは測れない凹凸までが
計測されるから、結局測定値は無限大になるのだという。篆刻の楽しみを
「方寸の世界で遊ぶ」というけれど、1寸四方の中に無限の長さを創出している
と思えば、実に痛快ではないか。篆刻は「無限」で、この輪郭の長さも無限。

選挙に、ため息。(篆刻:息)

息

どうもよく分からないので、困っている。たとえば、赤城農水相の事務所経費の
問題なんですが。計上した数字が、そのまま税金から支払われるなら、
けしからんけど、どうもそれほどシンプルではないらしい。政党交付金から
支払われるにしても、計上した金額がそのままもらえるとも思えないし。
メディアは上っ面で騒ぐばかりで、そこをちゃんと説明してくれないんですね。

農業政策では、自民党は小規模農家を集約して、集落営農など一定規模以上に
支援を集中させるとか。でも、この周辺の段差だらけで猫の額のような田んぼを
集約してもメリットがあるとは思えない。いよいよ見捨てられてしまうんだろうか。
一方、民主党は「戸別所得保障制度」で食料自給率100%を目指すという。
自民党のお株の所得保障の焼き直しと自給率100%には、2度ビックリ。

国民1人当たり1日2000キロカロリーを自給すれば、自給率100%なのだ、
と天才バカボンのようなことを言う。自民党にはテンコ盛りのお灸をすえなきゃ
ならない。といって、敵失ばかりで民主党を勢いづかせるのも、しゃくにさわる。
篆刻は、「息」。なんだかエビセンベイのように見えるかもしれないけど、
投票前の私の心象を投影して、ため息が出るほどの出来栄えなのだ。ニャロメ!

新しい原子炉が、ある。(篆刻:日新)

日新

もう20年ほど前の話だが、いやでいやで仕方ない仕事があった。
某電力会社の新聞広告。A新聞のある県版に、5段(3分の1ページ)で数ヶ月間
他愛ないクイズを続けた。クイズはただの口実で、本題は片隅の小さなコラム。
原子力の安全性をさりげなく入れた。新聞社に広告掲載料を定期的に渡すことで、
何か問題が起きた場合に手心を加えてもらえるのではないか、という魂胆だった。

会社の立ち上げにお世話になった方の仕事だったし、社員もそこそこいたから
断れなかったが。原発の事故やデータ隠しのニュースを見るたびに思い出して、
気分が悪くなる。こんどの中越沖地震でも、「地震と火災が同時に起こることなど、
想定していなかった」という話には、あいた口がふさがらない。断層だらけの日本に
安全と言い切れない原発をつくること自体が、無茶ではないか。では、どうする。

「トリウム熔融塩核エネルギー」なのだ。1950?76年頃に米国で研究開発されたが、
冷戦下で敬遠された技術。核弾頭物質の取り出しは不可能。重大事故は原理的に
起きない。原料は自給自足できる。使用済プルトニウムを燃焼消滅させられるなど、
いいことずくめ。20?25年後には実用可能なのだという。詳しくは検索ねがうとして。
篆刻は、「日新」で、日に新た。日本の原子力関係者の頭は、旧態依然なのだが。

自然を、ねじる。(篆刻:自撚)

自撚

「環境goo」というサイトがある。「見て知って実践するエコ情報」とあって、
環境関連で調べたいことがあると、ちょくちょくのぞかせてもらう。
その中の「環境ナビゲーター」は、環境問題の20のポイントをその道の専門家が
解説してくれている。2001年から2002年のコンテンツだから新しくはないけれど、
遺伝子組み換え、ヒートアイランドなどの基本の理解には役に立つ。

20回目は「農薬の安全性」で、農薬会社の人にインタビュー。なぜ農薬会社か。
大学、研究所などの人では、将来的専門的すぎて、市販の農薬や制度に精通する
人が少ないのだそうだ。で、こんな話。「よく自然に則した農業をと言うけれど、
農業は特定の植物種を人為的に優占種として単一栽培する状態で、そもそもが
不自然なものです。」 言われてみれば、そうだ。農業とは、不自然な行為なのだ。

昆虫や病原菌、雑草などが、農業で失われた自然界のバランスを取り戻そうと
常に攻撃してくるから、人為的に対抗せざるをえない。ゆえに農薬が必要なのだと。
篆刻は、篆刻を始める以前の手すさびで、「自撚」。なぜ、自然でなく自撚なのかも
記憶にないが。素直に生きればいいのに、なぜかねじれてしまうのを自嘲したか。
はてさて農業とは、自然を無理やりねじふせる人間の所業だったのだ。

安易な、猿。(篆刻:安)

安

畑に枝豆を見に行った。普通の枝豆も、丹波の黒豆も、そこそこ育っていた。
葉がレースのようになっていたナスも、薬を撒き、肥料もやったから、ナスらしき
ものが3個ほど採れた。さてトマトは、と見れば、最初に赤くなるはずの房が折れて、
落ちている。そばには、いちばん赤く大きなのが、半分かじって捨ててある。
さては、猿めか。大阪の孫と、どちらが先に赤くなるか、競争しているというのに。

さあ、こんどはヤマモモの方で、猿の声が聞こえる。しのび足で見に行ったが、
近づく前に逃げられた。枝がボキボキと折られて無残。カミサンは、「ヤマモモなら
もう十分採ったし、人にもいっぱいあげたから、いいじゃない」と言うのだが。
「ヤマモモはいいけど、畑のトマトは駄目だよ」と、猿に教えられないのだから。
以前に見たNHKの猿害問題の番組で、猿の権威の先生の名言があった。

「猿も、安易に流れるのです」。山の奥で、わずかな木の実を探すより、人里の
野菜や果樹の方がはるかに安易。だが、それと引き換えに、人や犬に追われる
恐怖があることを、教えなければならない。と、2年も3年も辛抱強く猿を山に
追い返すことを続けている。篆刻は、女手風の「安」。家で女が安んじる形。
猿と男の戦いは安易ではないと、安物のモデルガンを強く握りしめるのだった。

豆で、豊かに。(篆刻:豊)

豊

5月の半ば過ぎだから遅かったが、枝豆の種を蒔いた。種の袋には、
「ひとつの穴に3~5粒を」と書いてあった。本葉になってから間引きするのだが。
間引きするなら、最初から1粒でいいのではないか。まあ、すべての種が
発芽するとも限らないから、保険かなと思っていたが。「種は2粒蒔く。
2粒の方が発芽も育ちもいい。」という話を読んで、目が点、いや粒になった。

日経「春秋」欄が紹介する、宮川ひろ子さんという児童文学作家のエッセーでは。
2本の豆は「仲良く支えあい、あるときは競いあって成長してくれる」という。
山形の豆生産者の話というが。隣あった2本が日照を求めて、結果的に競い合う
ことになるのは分かるとしても、豆の発芽までがよくなるとは不思議。
来年は、1粒、2粒、3~5粒を蒔き分けて、発芽と成長を比較してみようか。

それにつけても、枝豆は自分の畑のものに限る。枝豆は湯が沸いてから
採りにいけ、というくらいだから。採りたて茹でたての、あの甘さを知ったら、
他府県産など論外、中国産には枝豆の名さえ許すまじ、と思うほどなのだが。
篆刻は「豊」。この漢字にある豆は、足の長い器で、それに穀物などを盛る形。
まだ小さく薄い我が家の枝豆、食べる日を待つ時間までもが、豊かなのだ。

出過ぎる、芽。(篆刻:芽)

芽

我が敷地沿いに、水路がある。25センチほどのU字溝で、水利組合の管理下だが、
砂がたまれば、私が横のコンクリートに上げることもある。そのわずかな砂の上に、
冬から放射状に草の葉が広がっていた。これが春になって急に背を伸ばし、
1メートルを越えるほどになった。そして最近、無数の黄色い花を咲かせた。
お客のためにわざわざ入り口に植えたのか、と言う人もいるが、とんでもない。

調べてみれば、それはビロードモウズイカという地中海沿岸が原産の帰化植物。
たしかに体全体がビロード状の毛で覆われている。他の植物が進出する前の
荒地に生える、いわばフロンティアなのだそうだ。しかも、この花(草?)は、
切られても切られても茎を伸ばす力が旺盛。うかつに茎を途中で切れば、
かえって側芽と花の数が増えてしまうから、手をこまねいて放置するしかない。

これは「頂芽優勢」というメカニズムで、頂芽から分泌されるオーキシンという
植物ホルモンによるもの。この頂芽優勢をはじめ、目から鱗の話が次々続くのが
『植物の生存戦略』という本で、副題は「じっとしているという知恵に学ぶ」。
そういえば、我がSOHOもじっとしている知恵、のはずなのだが。芽が出るのか
出ないのか、伸びるのか伸びないのか。篆刻は、なにやら重たそうな「芽」。

戦わない、言葉。(篆刻:不戦)

不戦

朝、仕事場の窓を開けたら、上の道で、「クー、クー」と子猫が甘えるような声。
抜き足指し足で見にいけば、案の定、猿が3匹。少し赤くなりはじめたヤマモモを
下見にきたのか。竹林を駆け登る後ろに、BB弾を10発ほど撃ち込んだ。
直径5ミリのプラスチックだから、当たっても痛くも痒くもない。ただの気休めだが、
不労の略奪行為は許されない、というコミュニケーションの武器にはなる。

さて、この猿の甘えたような声「鳴き交わし」は、お互いが仲間であることを示す
コミュニケーションで、人間の言葉の原始の姿らしい。ファティック、交話といって、
恋人同士の他愛のない会話がその典型。世のご婦人方の電話も好例で、
この用件で、なぜこれほど長話になるのかとあきれるが。伝えられる情報よりも、
おしゃべり自体が人と人の関係を深めるのだそうで。無駄話ではないらしい。

この交話をベースにした言語でグループ化に成功して、現在に至るのが
ホモ・サピエンス。本来、言語は仲間同士で戦わないための道具だった。
篆刻は、旧作の「不戦」。「原爆投下はしかたない」という、防衛大臣の言葉も
聴衆やアメリカに媚を売るための交話だったのだろうが。「こんにちは」と
「無差別殺戮兵器」の違いも知らない人間に、「不戦」の意味など判りはしない。

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