2007年8月

東へ、帰らず。(篆刻:不東)

不東(新)

久しぶりに薬師寺で般若心経の写経をした。この8月15日の終戦記念日に、
家で写経した1巻をまず納めて。それから、お写経道場でカミサンと孫も一緒に
2巻、これでちょうど100巻目。「薬師寺伽藍復興 写経勧進納経集印帳」は
金色の9冊目。あと8巻でひと区切りになる。そのほとんどは、カミサンが
折りにふれてお写経をしたものだが、貧者の一灯として、と書きかけて。

いやいや、貧者の一灯とは尊大な、と思い直す。「貧者(貧女とも)の一灯」とは、
貧しい者の真心のこもった寄進は、たとえわずかでも富める者の万灯より尊く、
功徳があるという話。誰が誰に向かって言う言葉なのか、戸惑ってしまう。
お寺さんのホームページの中には、貧者の一灯の由来を解説しながら、
お金持ちのご寄進だって尊いし功徳がある、とフォローを忘れないものもある。

篆刻は、「不東」。玄奘三蔵法師が仏典を求めて唐から西の天竺を目指す旅で、
目的を達するまで東に帰らないとの、決意の言葉。薬師寺の伽藍復興を
発願した故高田好胤さんが、ご自分の決意と重ねあわせて書かれた文字を
竣工直後の玄奘三蔵院で拝見した。太い朴訥とした筆の跡に触発されて、
帰宅してすぐ彫ったものがあるが、これでも新作。決意がないから、進歩もないが。

足るを、知る。(篆刻:知足)

知足

以前、新聞で読んだときは、あまりの貧しさからの苦しまぎれかなと思ったが、
どうもそんな次元のことではないらしい。ブータンという国のGNPならぬGNHは、
グロス・ナショナル・ハピネス。国力を国民の幸福の総量で表す、という考え方だ。
NHKがお盆に合わせて5夜連続で再放送の「五木寛之21世紀・仏教の旅」。
さすがに全編を見るのは無理だったが、ブータンの人々の笑顔は本物だった。

国民の多くが、毎朝早くお寺に参って、マニ車を回し、仏に祈る。その理由は、
すべての衆生が生前の業因で生死を繰り返す6つの迷いの世界、地獄・餓鬼・
畜生・阿修羅・人間・天上の六道で、再び人間に生まれたいという切なる願い。
打算的とも思えるけれど、なぜまた人間かの訳が、「いま、幸せだから」であれば、
さらに、なぜ幸せと思うかを聞きたい。答えは「満ち足りている」からなのだ。

もっと何かが欲しいと思わないか、との問いにも「欲望にはキリがないから、
そんなことは考えない」と笑って言うのが、すごい。篆刻は「知足」、足るを知る。
外連(けれん)味を避けて、ただ素直に彫ってみたが。きょう、61歳になった私。
人と競ってまで何かを手に入れようとは思わなくなった昨今。これが知足なのか、
単なる生命力の減衰なのか。知足のとっかかりにいると、思いたいが。

陽炎と、送り火。(篆刻:遊糸)

遊糸

あまりの暑さに、そうそう「遊糸(ゆうし)」の篆刻があったと、取り出したのだけれど。
遊糸は陽炎(かげろう)のことで、糸遊(いとゆう)ともいうが、季語としては春。
なるほど、春の急に強くなった陽射しに暖冷の空気の流れから起こるので、
こんなに暑い日が続けば、冷気などは冷蔵庫の中にしかない。三つ目のハスの
花も、お盆に間に合わせて咲く大役を果たして、ぐったりと散りかけている。

さて、お盆とは。お釈迦さまの高弟・目連尊者の母親が、愛情は使えば減るものだ
と思って我が子だけを可愛がったので、物惜しみをした罪で餓鬼道へ堕ちた。
地獄で苦しむ母の姿を透視した目連が何とか母を救おうと供養をしたのが
盂蘭盆会、お盆の始まり、というのだが。これは、恩や孝を重んじる中国で生まれた
偽教だとか。たとえ由来が偽であっても、霊の供養は、かけがえのない行為。

我が家は法華宗で、お盆は12~14日なのだが。きのう16日は、京都下鴨の
友人のマンション屋上から五山の送り火を拝ませてもらった。右に大文字、
正面に妙と法、左に船形、はるか遠くの左大文字までが見える絶好の位置だ。
デジカメの夜景モードで目いっぱいのズームで撮ったが、ほとんどは
手ブレで赤い炎が筋になって写った。それは、夏の夜の遊糸のようでもあった。

花に、微笑む。(篆刻:拈華微笑)

拈華微笑〔新〕

「ハスが咲いてる!」というカミサンの声で、はね起きた。群青の空の下、
逆光の中で、ハスは咲いていた。いま、いとけない小魚を掌ですくい上げたような、
やさしい開き加減。花びらの縁は、淡い桃色で、花芯にむかって白く消えていく。
のぞき込めば、大きな黄色い円を囲んで、白い無数の粒たちがひしめいている。
「華は半開で看る」という詩は、まさにこのことを謳ったのだったか。

篆刻は、「拈華微笑(ねんげみしょう)」。花を手に微笑むで、この日のために
用意しておいた。霊鷲山で天上界の神・大梵天王が、お釈迦さまに金波羅華
(こんぱらげ)という花を献上して、説法をお願いした。お釈迦さまは、それを
手に取って、百万の人と神とに黙って差し出したが、皆その意味を図りかねた。
ただひとり迦葉尊者が破顔微笑したので、仏法のすべてを授けたという話。

以心伝心といい、不立文字という。真理は文字や言葉では伝えられない、
というむずかしい話らしいけれど。赤い花は赤い。黄色い花は黄色い。
ただきれいだなあと、思わずにっこり微笑む。そんな曇りのない素直さを
失いたくないよね、というお釈迦さまからのメッセージだと思いたい。ちなみに、
金波羅華とは金のハスの花だけど、桃色のハスだって、ぴかぴかに光ってます。

運と、不運と。(篆刻:運否天賦)

運否天賦

マツダの車のCMで、若い女性が「人生なんて、そんなもんよね」という風なことを
言うのを聞くたびに、嫌な気分になる。あんた、人生、もう分かっちゃったの、と。
たとえば、米ミネソタ州ミネアポリスの橋の崩落事故。落ちて死んだ人がいるし、
かろうじて落下をまぬがれたスクールバスの子供たちがいる。その生死を分けた、
一線の右と左を、ただ運というひと言片付けていいものか、どうか。

私が、小学校高学年だったと思うが、鶴見の二本木というバス停の手前を
自転車で走っていた時のこと。木の電柱を埋めていたのか、掘り出していたのか、
その電柱が倒れてきて、私は道に投げ出された。前輪が直角に曲がっていた。
ペダルをもうちょっとこいでいたら、電柱は私の頭を直撃しただろう。向かいの
八百屋のおじさんが見ていて、「まあ、なんと運の強い子だろう」と言った。

篆刻は、「運否天賦(うんぷてんぷ)」。運、不運は天の成すところ。運を天に任す、
という意味でも使うらしい。人間は人知でどうにもならない物事を、天という名の
押入れに突っ込んでしまう。電柱事故を含めて、我ながら強運だなあ、と
何度も思ったけれど、私だって走っている橋が落ちる確率はゼロではない。
運、不運を含めて、人生は終わりにしか分からない。ね、CMつくった皆さん。

泥から、華。(篆刻:華)

華

生臭い話が続いたから、気分を変えよう。5月の半ばに、ハスの苗を買った。
苗とはいえ、ハスだから20センチほどのレンコンに、小さな葉が2、3枚。
庭の隅に放置していた睡蓮鉢に田んぼの土を入れて植えたのだが、
これがなかなか育ってくれず、やきもきした。カミサンから、他のホームセンターで
1000円も安かったし、つぼみまであったと聞いたときは、ガックリした。

7月に近くなって、やっと浮き葉より立ち葉が多くなって、ハスらしくはなった。
が、いっこうに花のつぼみが現れない。これこそはつぼみだ、と思っても
伸びたら葉だった、の繰り返し。やっと間違いなくつぼみが、1本出たのだが、
いつまでも水面からちょっと上のまま、伸びない。今年は咲かずに終わるのか。
まあ、お盆用のハスの葉を買わずにすむなら、それでもいいか、と言い聞かせた。

直径60センチの鉢に、直径50センチ、高さ1メートルに近い葉が20枚ほども
ひしめく姿は壮観。雨が降れば、それぞれの葉が鹿おどしのように水を溜めては
落とす様子も面白い。その葉の中に、ぐんと伸びたつぼみを発見したのは、
10日ほど前。いまでは葉を追い抜くほどの高さで、ふくよかな丸み、淡い桃色が
官能的でもある。篆刻は、「華」。泥から出た華が開くのは、さあ、いつだろう。

品格と、侠気。(篆刻:侠気)

侠気

きのう、「素心」をブログにアップして、さあ昼メシ、と思ったところに、1冊の本が
馬場啓一氏から届いた。こう書房から、この7月10日に発行されたばかりの
著作で、書名は『人間の品格』。まるで、私の「素心」をテレパシーでのぞき見して、
それを言うなら、こういうことでしょう、と急ぎ贈られたのではないかと驚いた。
失礼ながら、食事をしつつ読みはじめて、いっきに読了したのだった。

馬場氏には、『白洲次郎の生き方』(講談社文庫)というヒット作があるが、
その白洲次郎を含む、10人の日本人の生き方、働き方を簡にして明な筆致で
紹介してくれている。「あなたたちの住むこの日本という国は、これでなかなかの
人士を発見できるところなのですよ、と。」 渡邉美樹、岡野雅行、孫正義、稲盛和夫、
緒方貞子、白洲、安岡正篤、池波正太郎、藤沢周平と続き、吉田茂で終わる。

そうか、日本も捨てたものではなかったのだ、と思いかけるが、いやいや、
なおさらに、いまの日本の情けなさを痛感してしまった。篆刻は、「侠気」。
菜根譚で、「人となるには一点の素心」の前にある、「友に交わるには、すべからく
三分の侠気を帯ぶべし」。侠気は、強きをくじき弱きを助ける心だて、おとこ気。
首相が仲間や友達をかばい続けたのは、侠気ではない。品格とは、無縁の話。

消えた、素心。(篆刻:素心)

素心

とうとう日本は、こんな国に成り下がってしまったのか。このブログで、政治の話など
あまりしたくはないが、これは政治以前の話として。与党の党首が、国政選挙で
歴史的な惨敗をしても、なお「基本の政策は、理解を得られている」と言い張る。
その根拠は遊説中の聴衆の反応だという。それならば投票など要らないではないか。
この人の言葉は、信じられない。そんな人間が、いまこの日本のリーダーなのだ。

言葉が信じられない以前の問題は、参院で第1党になった党首にある。
たとえば、人に三拝九拝してものを頼んで、それが受け入れてもらえたのに、
お辞儀をしすぎて疲れたといって、丸2日間雲隠れしたままなどということが、
許されるだろうか。普通の人間なら、すぐに車椅子ででも、這いつくばってでも、
「おかげさまです。ありがとうございました」とお礼するのではないか。違いますか。

篆刻は、「素心」。菜根譚(さいこんたん)という中国の処世哲学書にある
「人となるには、一点の素心がなければならない」から。素心は、純粋、清浄な心。
昔の篆刻「一点素心」を出したが、あまりにもお粗末なので、急きょ新作した。
その出来はさておき、ピカソのゲルニカを出すまでもなく、怒りも創造を刺激する。
これを機に、日本中で創造の嵐が吹き荒れれば、不幸中の幸いなのだが。

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