2007年10月

寝る、ぎゃーてい。(篆刻:羯諦)

羯諦

28日の日曜。東京は、台風一過の晴天で汗ばむほど。お堀端の出光美術館で
最終日の仙展を観た。遺愛のそら豆形「仙」朱文印が展示されていて、
それは鈕(ちゅう、印のつまみ)が象の可愛い銅の鋳印だった。この印は、
よほどお気に入りのようで、半数以上がこの落款。曲がっていたり、とんでもない
所におしたものも多い。これが遊印だとすれば、「扶桑最初禅窟」は公式印。

わが国最初の禅寺、博多の聖福寺の住職としておした白文印で、2寸以上の角。
「歌舞里画賛」にあるこの印は、なんと右に90度寝ている。画は鳥居ひとつだが、
賛から名前まで40文字以上を書いて、さて落款印。大きな石に印泥をまんべんなく
付けて、場所を定めてそっと置く。両手を当てて、体重もかけたろう。よかろうと
思って印を離したら、横向きだった。そのとき仙さんが何を思ったか。何と言ったか。

私が「篆刻 般若心経」の軸を頼まれれば、文節ごとの55顆をおすことになる。
終わりも近いころ、気が抜けるのか、この「羯諦」が横向きになったりする。
私は「ぎゃー」と叫んで、それを「諦」めて、やり直しになるのだが。達磨の画に
「達磨忌や 尻のねぶとが痛とござる」と面壁九年を茶化したような戯れ句を
書くような人だから。「是、また風流」と、皆といっしょに呵呵大笑したに違いない。

常という、布。(篆刻:常)

常

注文の個人印が出来上がった時、印存(為書き)にその文字の意味を書いて
お渡しするのだが。そのままでは書きにくい漢字がある、という話を以前にした。
たとえば「幸」。白川静先生の『字統』には、元は拷問の手かせの形だとある。
その後、僥倖(ぎょうこう、思いがけない幸せ)の意味になり、ついには
天子のことに用いられるようになった。当然、書くのは後半の部分になる。

コピーライター兼篆刻家としては、まずもって漢字の意味を大切にしたい。
だから、初めての漢字は、かならず字源を調べる。たとえば、この「常」の場合。
本名は「つね子」さんだが、あえて漢字の常を希望された。「巾」は布で、
「常」は一定の巾の布のこと。「尚」は光の入る窓「向」と神気の現れる形の「八」。
古代、丹精して織った布は貴重で、神の降る依り代、だったのではないか。

これには、私も驚いた。なぜなら、つね子さんは、京都の着物商の奥さま。
この名が付いたときから、それは運命づけられていたのかもしれない。
お子さんも兄妹でキモノ店をされている着物一家。しかも、ご主人は光夫さん。
印とともにそれを書き送って、おおいに感激されたことは言うまでもない。
彼らが人一倍の愛情を注ぐ布、着物には、きっと神が降り、神が宿っている。

自らを、慎む。(篆刻:秋霜自慎)

秋霜自慎

この地区の駐在さんは、真面目だ。昨今は飲酒運転が厳しいので、奈良で
酒を飲む時は、バスに乗って出る人も多い。家がバス停から遠ければ、
車で県道まで出る。飲んだ帰り、タクシーで自分の車のところまで戻って、
さあ乗ろうとすると、そこに駐在さんが待ち構えていたりするのだという。
あまりに杓子定規という声に、駐在さんの答えは「この歳で、性格は直らない。」

私のせっかち(関西で、いらち)も、もう直らないだろうなあ。実は前回の「無常」は、
1回削除している。投稿直後にMにメールで、ブログに書いたことを伝えたが、
翌日になっても返事がない。メールのほぼ全文の無断借用への、無言の抗議か。
自分だって、そうされたら気持ちのいいものではないし、と考えて削除した。
その後に、Mからのメール。「ブログを早速見て、うれしかった」のだが。

「すぐ外出しなければならなかったので、そのままにした。ゆっくり読み直そうと
見たら、消えていた。復活してくれ。」という訳で、改めての投稿となったもの。
篆刻は「秋霜自慎」。佐藤一斎の『言志四録』で「春風接人」に続く言葉。
私は、春風のように自らを甘やかせ、秋の霜のように人に接しているが。
ブログに書く、と知らせてからでも遅くはなかった、と反省だけは猿でもする。

心、常ならず。(篆刻:無常)

無常

東京の大学時代の友人Mからメールが来た。『ヨガの境地を極め、仏教の境地を
極め、それを歌にすると「ローハイド」です。何といっても「ローリンローリンローリン」、
そして「ムーヴィンムーヴィンムーヴィン」なのですから。「諸行無常」のイメージは
だいたいこんなものです。ヒンドゥーの神様ナタラージャは変化変動の中を
踊り進みます。「マイ・スウィート・ロード」など「ローハイド」の足元にも及びません。』

うーん、これはハイだな、と思っての返事。『とうとうヨガも仏教も極めましたか。
あなたなら何時かは、と思っていましたが。』 『失礼、極めてはいませんでした。
僕は30才から10年間、インドの先生についてヨガの練習をしました。それ関係の
本も随分読みました。神秘体験も少しはしましたが、インドへ行ったときに老師に
それを話すと、「それは心のマジックで、ヨガの境地とは無関係」と却下されました。

あるとき道場で、何分の1秒か、「これだ」という経験はしました。フランキー・レインの
「OK牧場の決闘」は好きですが「ローハイド」はちゃらちゃらした感じで好きでは
なかったのに、今年の8月に急に好きになりました。そして先週、ハタと膝を打ち、
そして喜びのあまりメールを送ってしまったわけです。』 篆刻は、「無常」。高揚も、
いつか沈静する。狂喜も悲惨も常態たりえない。禅ではポジティブな言葉とされる。

香る、庭。(篆刻:香)

香

いくら鼻の利かない私でも、いま庭に出れば金木犀(きんもくせい)の芳香に
包まれる。朝夕が冷え込んで、さあ本格的な秋になる、という香りのシグナルで、
四季の節目ならではの至福。これを都会の子どもが「トイレの香り」と
覚え込んだとしても仕方がないけれど、金木犀にしてみれば迷惑千万。
どんな香りも科学的に合成できてしまう。それって、はたして幸せなことなのか。

「笑えるとしか言いようがなく、しかも記憶に残り、人々を考えさせる業績」に贈られる
イグ・ノーベル賞。今年の科学賞は、牛糞からバニラの芳香成分「バニリン」を
抽出した日本人女性だった。本家のノーベル賞受賞者たちがためらいながら
そのバニラアイスクリームを口にする映像がニュースで流れて、笑いをさそった。
牛糞と聞かなければ、ただおいしいで済んだだろうに。知、かならずしも幸ならず。

篆刻は、「香」。祝詞を収める器・曰(えつ)に黍(きび)を置いて神を祀ること。
黍は、酒の原料で、酒は芳香を放つ。神に供えるものは香りを第一とするが、
神にすすめるは、その芳香そのものではなく、それを供える者の徳の芳しさである、
と戒める古書もある。お賽銭あげたからご利益ちょうだいと願う若い人が、
匂い(臭い)をかぐことをごく自然に「におう」と言う。知、かならずしも益ならず。

頼らず、助け合う。(篆刻:不頼互助)

不頼互助

私が昔、はじめてM電器の広告コピーを書いて、まがりなりにも合格になったのは、
形容詞が少ないからだった。抽象的な形容詞の多用は、読む者を混乱させる。
安倍さんが「美しい国」をスローガンにして、広報のプロが補佐官なのにと
首を傾げたが、案の定腰砕け。で、福田新総理は「自立と共生」。小沢さんは
自分が先に言ったといい、福田さんは「政治家は同じ言葉をよく使う」と、とぼける。

自立は、最近までよく聞かされた「自己責任」を思い出させるが、流行の「共生」を
組み合わせてバランスをとったのだろう。言葉は、誰でも使うから言葉であって、
先だ、後だと言うこと自体がナンセンス。肝心なのは、自立と共生という
相反する目標を、どう実現するかという、具体的な方法、道筋なのだが。
1週間そこそこで、所信表明演説をまとめること自体が無理と、また逃げる。

さて、篆刻は「不頼(ふらい)互助」。20年も前に、息子の中学の先生が
バレーボール部員に示した言葉なのだが。いい言葉だと、ずっと記憶に残っていて、
最近やっと形になった。ひとつのボールにみんなで立ち向かう。他を頼っては
いけない。同時に、互いに助け合わなければならない。意味は自立と共生に
近いが、「不頼互助」の方が生きている。それを、切ったら血が出る言葉、という。

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