2008年9月

映画の、ネタ。(篆刻:映)

映
久しぶりに見た映画の話をしようと思ったら、ポール・ニューマンが亡くなったという。
「ハスラー」「明日に向かって撃て!」「スティング」など、あんなドキドキする映画が
無くなって久しい。わざわざ見に行きたい映画がない。この前が「硫黄島からの
手紙」だから、かれこれ2年ぶり。4時間以上も暇をつぶさなければならないので、
映画「ウォンテッド」を見た。見たら、それはそれで面白い。息もつけないほどだ。

肥満の女性上司にいじめられ、恋人を寝取られるダメ男が、ギリシャ神話の時代から
続く暗殺団の非情で過酷な訓練を受けて、驚異的な殺人能力を発揮するようになる。
全編、これコンピュータ・グラフィックで、撃ち合ったピストルの弾が、正面衝突して、
ベチャッとひしゃげる。あれ、どこかであった話だなあ、と思いはじめた。うん、そうだ、
中島敦の小説『名人伝』だ、と気がついた。こちらは、中国の弓の名人の話だが。

名人伝では、師を狙った矢とそれを察知した師の矢が当り、共に地に落ちる。
名人伝の瞬きしない訓練は妻の機織(はたおり)の下に潜り込むが、ウォンテッドは
暗殺団のアジトの紡績工場で、猛スピードで動くシャトルをつかむ。原作、原案、
脚本、皆カタカナが並んでいるが、名人伝が下敷きに違いない。篆刻は、「映」。
央は首かせをはめられた人の象形だが、ハリウッドもネタ探しに苦しんでいる。

文字は、お宝。(篆刻:其蜩)

其蜩
テレビの「何でも鑑定団」をよく見る。鑑定依頼品が本物か偽物か、自分の直感を
試すのは面白い。その鑑定法に、「この時代、この作家はこの印を使っていない。
だから偽物」というのがある。贋作を作る人、それを売る人、騙されて買う人が
いかに多いか、なのだが。篆刻の世界にも贋作がはびこっている。いや、正確に
言えば、多くの篆刻作家が懸命に贋作づくりに励んでいるのでは、と思える。

篆刻の解説書には決まって「時代の違う書体を混ぜてはいけない」とある。
例えば最も古い甲骨文と次の時代の金文を混在させるな、ということ。これは
甲骨文の時代にはまだ金文が無い、だからあり得ない、という贋作鑑定式の
考え方。なぜ逆に、金文の時代には甲骨もあった、だから混在して構わない、と
考えられないか。篆刻の世界が懐古・守旧の弊害に侵されているからなのだ。

篆刻は、「其蜩(きちょう)」。『花ごよみ』の守田蔵さんの俳号で、「その日暮らし」の
洒落とか。頼まれてもいないのに押し付けで刻ったもの。「其」は甲骨文で、「蜩」は
周(彫飾した盾)の金文図象から。日本は、漢字、平仮名、カタカナ、アルファベットと
無尽蔵な文字資源を持つ稀有な国。その国で、篆刻に違う書体を混ぜるなとは
了見が狭すぎる。と、蔵さんに負けないその日暮らしのなかで、私は考えている。

酒と、幸福。(篆刻:福)

福
まだ20代後半、マクドナルドやペプシのCMをやっていた頃、黒澤組の助監督に
演出を頼んだことがある。その彼が「あなたに酒が飲めたら、演出をさせて
見たいんだが」と言った。酒が飲めないから、残念ながら人情の深いところが
分からない、という意味らしい。30年以上たって、人並みに飲めるようになった
いまは、別に酒が飲めなくても演出はできるし、酒の広告だってできると思う。

11月1日は日本酒造組合が決めた「本格(天然原料の乙類)焼酎・泡盛の日」。
その広告を2003年から3年続けてやらせてもらったが、2004年頃焼酎ブームが
ピークになって、あえて広告を打つまでもないと、終わりになった。そのブームも
07年度にはかげり(ブーム定着との見方も)が見え、鹿児島の出荷量は6年ぶりに
前年を下回った。そこに、この事故米騒ぎ。芋焼酎ファンとしても、他人事ではない。

で、篆刻は「福」。畐はお腹のふくらんだ酒樽で、神に酒を供えて福を求めること。
音が同じなので蝠(こうもり)まで吉祥になる。富も、畐に充足する意味があるので、
富む、豊かとなったが、白川先生はあえて論語の「不義にして富みかつ貴きは、
我において浮雲の如し」を挙げている。「事故米を不正に転売して、金と名誉を
得ても、そんなものは雲のようにはかないものだ」と、あのこわい顔が目に浮かぶ。

神の、音。(篆刻:音)

音
言の字源は、神に誓う言葉を器サイに入れて、違約したら神罰を受けるとの
覚悟で辛(針)を置いた形による。言葉が軽くなった現代の日本はさて置いて、
言葉を発するにはそれだけの覚悟がいる。さて、「音」は白川先生の『字統』では
「言にあるサイの中に一を加えて、中に自鳴の音を発すること」だという。
神が祈りに感応したことの「音づれ」であり、「訪れ」はここから生まれている。

さらに、音に心を加えた「意」は、神の反応の音づれを憶測すること。これほど
音は神聖なもので、風の音、楽器の音で神意を占うことが多かったという。
そうしたあれこれを想いながら造形を試みたのが、この篆刻、「音」。
人の祈りに神が反応して、その音づれが器に響き、そばに置かれた辛までも
共鳴させて、調和のとれたハーモニーとなる、ように見えましたらご喝采。

まず、『字統』のその漢字の項を熟読する。漢字が生まれた古代の意味と
現代日本での意味を、頭に叩き込む。それを想いとして、直線を伸ばしてみる。
伸ばした線を気持ちよく曲げてみる。曲がった線が何本かあれば、その長さを
整えてみる。自由で伸びやかでありたい。しかし、漢字の根幹をゆがめては
いけない。そうして生まれた篆刻「音」なのだが、神の音づれは、まだない。

はっきりと、言う。(篆刻:愛語回天)

愛語回天(新)
恥ずかしながらと言いつつも、「愛語回天」の旧作はあまりに恥ずかしいから
刻み直した。といっても、回を渦巻きにした以外、独創などほとんど無いけれど。
独創といえば、「言は辛(針)+口だから、鋭く言うこと」という独創的な字源説を
ある人のホームページで見かけて驚いた。続いての「音は、口の中に点が
あるから、はっきり言わず、口の中でもごもごしている様子」には吹き出した。

言は白川静先生の『字統』では、「口はくちではなく神に誓う書を入れる器サイ。
辛はその前に置く入墨用の針で、違約したら罰を受けることを示す」とある。
私は、篆刻も篆書も、造形では大いに冒険すべきだし、自由奔放であっていい
(改めて書く)と考えるが、字源ばかりは勝手な創造が許されるものではない。
文字が成立した時代の生活と思想を集約した、文化そのものなのだから。

その人は「はっきり言わなきゃ、ただの音。」と、見出しで念まで押している。
それがご自身の生活信条であれば、何の問題もないけれど、だから漢字は
面白いとおっしゃるのは、面白すぎではないか。「意見がある時は、はっきり
明確にはきはき、鋭い発言が大切なのだ」とお書きだから、まったく同感で
はっきり申し上げるのだが。う?ん、愛語ではないなぁと、思いながらも。

言葉の、ちから。(篆刻:愛語回天)

愛語回天
「字というやつが混濁の極だ。事物であると同時に影でもあるし、意味定量がない。
経験によってどうにでも変貌する。たえまなく生きてうごめいていてとまることがない。
とめるということもできない。・・・玉虫の甲みたいなものだ。」と大いに嘆いたのは
開高健先生だが。中国の南宗時代、1700年以上も昔の禅の公案集『無門関』の、
この一節は、ご存知だったろうか。「言無展事 語不投機 承言者喪 滞句者迷」

「言(こと)、事を展(の)ぶること無く」 言葉は事実を伝え得ない。
「語、機に投ぜず」 語句は心の真実を具現しない。「言を承(う)くる者は喪し」 
言葉に執着する者は真を見失う。「句に滞る者は迷う」 語句にこだわる者は迷う。
これは実に正論で、だからお釈迦さまの特技は以心伝心だったが、悲しいかな
並みの人間は言葉という道具、功罪を併せ持つ両刃の剣に頼らざるをえない。

そこで、篆刻は恥ずかしながら旧作の「愛語回天」。これも禅の言葉らしく、
良寛さんにも「愛語」の書がある。思いやり、慈愛あふれた言葉やもの言いは
世の中や人生さえも動かす力があるということ。だから、せめて言葉を発するときは
相手の身になってと、その時は思ったけれど。これを刻んだことすら、忘れていた。
日頃は言った、言わない、聞いてないの数珠つなぎで、これでは「愛語空転」。

言葉の、こわさ。(篆刻:言霊)

言霊
私が酔った勢いで道端の占い師に手を差し出し、生年月日を言うと、答えは
「口の災いに気をつけなさい」だ。これはキャンキャン吠える犬歳だからで、
こんなのに見料を払うのはもったいないが、当っているから仕方ない。
福田総理が辞任会見の最後で「私は自分を客観視できる」と言ったのは、
意味不明だが許すとして、「あなたとは違うんだ」は余計だし、まずかった。

天野祐吉氏の観察による、「温厚で熟慮型に見えるが、実は感情的」が
露呈してしまった。篆刻は、「言霊(ことだま)」。言葉に宿る不思議な霊威で、
日本では古代、その力が働いて言葉通りの事が起こると信じられた。
自分は調整型の人間と何回も言ったから、調整に失敗すると自分では突破が
不可能と決め込む。言霊を持ち出すまでもなく、自縄自縛で済むのかな。

大学の広告研究会の10年先輩に向かって、失敬だが。同じ副幹事長同士
だから分かることもある。サブリーダーの官房長官の時は、まあ良かった。
それが総理というリーダーになったら、誰を自分のサブにすべきかが見えない。
そういう勘さえ働かない。結果的に孤立する。サブであるべき者がリーダーに
なると、そういうことが起きる。それは、「副」という言葉の言霊なのかもしれない。

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