2009年3月

花に、追われて。(篆刻:遊花)

遊花
とうとう、この奈良市東部山間のわが家にも、光ファイバーが来た。
工事は2月27日に終わって、その日からテレビはデジタル・マルチチャンネル。
映画、スポーツ、MTVなどなどで、ついつい夜更かし気味になってしまった。
NTTのISDNで、うんざりするほど遅かった画像も100メガだから、速いはやい。

メールアドレスも増えたから、gooで『百野草荘 花だより(リンクあり)』なる
ブログを始めた。この百野草荘で何かの花が咲くたびに、デジカメで撮って、
PCに保存しているのだから。これを機に開花レポートを、と思ったのだが。

キクザキイチゲがすっかり開ききって、その横にはカタクリも開花寸前。
ここ数日の暖かさで、ケイオウザクラ、ミモザアカシア、シデコブシまでが
咲き始めた。椿だって、見て回るたびに、新しい種類が咲いていて驚く。

ブログに載せる以上、いい加減な名前は書けないから、ちゃんと確認する。
画像もそのままではなく、決まった大きさに揃えて、フォルダにまとめておく。

篆刻は、「遊花(三游会に出品予定)」。以前、店のロゴ兼篆刻を頼まれたのだが
中止になったのを、せっかくだからと彫ってみた。花は勝手に咲いて、風に吹かれて
遊べばいいが。私は、花で遊ぶどころか、花に追い回されて、大変なのですよ。

是非を、答えず。(篆刻:無記)

無記
これは友人のAの話なのだけれど。彼が奥さんと娘さんの3人で、車で墓参りに
行ったときのこと。奥さんが助手席で、「向こうの天気は大丈夫かしらね?」と
つぶやいた。Aは即座に「何言ってるの。さっき二人でテレビの天気予報見て、
晴れだったじゃないか」と答えたのだが。とたんに車内の空気が悪化した、という。

後で、娘がAに言ったそうだ。「ああいう時は、『うん、どうかなぁ・・・』でいいのよ」

これを聞いて、この篆刻の「無記(今度の三游会に出品予定)」を思い出した。
仏教語大辞典(石田瑞麿著・小学館)によれば、「善悪を決めることができないもの。
意味を分別した決定でないこと。無意味なこと。質問に対して是とも非とも答えない
こと。例えば、釈迦が世界が常住か無常かとの質問に答えなかったこと」とある。

私なりの解釈をすれば・・・。世の中には、特に凡人の日常には、さらに言えば、
夫婦の会話などでは、杓子定規に答えを出さなくても良いことの方が多いのだ。
感覚と理屈が雑多に混在する人間がふたりいて、ひと言ひとこと是だ非だと
言ったところで、かみ合うはずがないし、食い違って気を悪くする方が多いのだ。

かくして、この「無記」こそ、夫婦円満の知恵の言葉なのだが。この無記も細心に
やらないと、単なる「無視」と受け取られかねないから、おのおの方、ご用心を。

これも、また風流。(篆刻:風流)

風流
家の裏の白梅をデジカメで撮った後、手からカメラがもんどりを打って落ちた。
前なら地べたと雑草だった場所なのに、犬走りと同時にモルタルになったので、
液晶画面がモンドリアンの絵になってしまった。(シャレ、通じたかな?)

Jという家電量販店の5年間保証があったので、修理に出したのだが。
約2週間後、引き取りに行って見た報告書には「電池劣化、交換を」とある。
店には無く「取り寄せ」だという。「ここまで往復1時間かかる、修理できたという
電話の時に言ってくれれば」と文句を言ったら、「では送ります」という返事。

それから約1週間。やっと電池が届いたのだが、品番の違う電池で使えない。
また、約1週間後。「今度は直接お持ちします」という電話で、店員が来た。

あきれてモノが言えない、とはこういうことだが。禅僧で作家の玄侑宗久さんは、
「これもまた風流」とおっしゃる。たとえ嫌なことが起こっても、全体が成長に
向かっていれば「風流ならざるところも風流」なのだと。だから、無駄でも
回り道でもないのだ、と。そんなことを思い出しながら彫った篆刻「風流」。
風のように、水のように、はたまた世の移ろいのように、なったか、どうか。

Jという家電量販店の行く末がどうなったとしても、これもまた風流なのですよ。

篆は、天まで。(書:天の会)

天の会
3月27日から三游会。猛然と追いこんで、何とか篆刻の数で50顆、額の数で
30点分を彫り上げたが。いよいよ印を押()す段になって、難渋している。
印泥(肉)をストーブや電球で温めて、そこそこの柔らかさにはなるけれど、
2回、3回押しても、紙への乗りが悪い。今日中には押し終わって、今週末には
裏打ちに出したいが。今朝もまだ温まらないから、暇つぶしに、プチ発表を。

この文字は、「天の会」。楽篆堂の篆刻教室、塾、もしくは寺子屋みたいなもの。
これまで何回も、求められるままの篆刻一日教室のようなことはやったけれど。
三游会のたびに、「篆刻教室は?」と聞かれるが、「篆刻それ自体の彫り方は
半日で覚えられます。あとは、各人の努力とセンスだから」とお答えしてきたのだが。

今回の作品創りで、自分の篆刻の自由度がかなり増したと感じた。この自由度は
他の人の個性によって、もっと拡がるのではないか、天まで伸びるのではないか、
と思ったのだ。もうひとつは、この狭川の古民家で、月に1日くらい、喧騒を
離れて、篆刻で遊んでもらったら、お互い楽しいだろうな、という気分になったこと。

まだ思いつきの段階で、具体案は三游会で発表する予定だが。そろそろ印泥が
温まったようだから、さあ、いちばん嫌いな、(けん)に取りかかりましょうか。

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