2009年9月

生まれ出る、意志。(篆刻:出)

出
以前、羊の出産直後を見たが、生まれて30分ほどで立上がり、母親を追った。
哺乳類は胎内で充分に育ってから生まれてくるのだが、人間だけはそうではない。
吉田脩二先生の『ヒトとサルのあいだ』で、人間の赤ん坊は予定日に生まれても
10ヶ月の早産であり、未熟児状態で生まれ出てくると教えられた。脳の進化で
頭が大きくなったので、そうしなければ母子ともに危険になるから、だという。

大阪にいる息子夫婦にふたり目の子どもが生まれた。予定日より2週間以上早く、
2,080グラムだったが、幸い母子ともに元気だった。息子と孫が見守るなかで
出産をしたというが、助産婦さんが陣痛のなかで、こんな話をしてくれたという。
「赤ちゃんは自分の意志で、さぁ、生まれようと決める。しかし、そう決めても
母体のコンディションが万全でない時は、それを感じて思いとどまるのだ」と。

ひとり目の時は、息子も私も、男として新しい生命の誕生という事実に当惑した
記憶があるが。ふたり目では、この赤ん坊の意志に感動する余裕もできた。
それにしても母と子の、このような緊密さに、男たちは到底かなわない。
篆刻は、甲骨文の「出」。足の後ろにかかとの跡をつけて、歩行を示す文字。
この子の真の誕生は、10~12ヶ月後、言葉を発し、歩いた時。無事に育てよ。

白洲次郎の、白黒。(篆刻:白)

白
繰り返しになるが、P&Gのプロダクト・マネージャーMr.Dは、全温度チアーという
商品の全権を任されていたから、戦後のGHQのマッカーサーのようなものだった。
私は言いなりになって、ぶざまなCMを作ったのだが。白洲次郎という男は、
マッカーサーにも「失礼だ。日本人を奴隷扱いするな」と怒鳴りつけた、らしい。

先日、NHKドラマ「白洲次郎」の三部作が完結した。私の手元には馬場啓一氏の
白洲次郎の本2冊があるが、どちらを読んでも解けない疑問があった。彼は
戦争に行ったのか。その答えは第二部にあった。軍の高官に「戦争に行くことは
私の使命ではない」と言って徴兵を逃れている。ゆえに、彼はたとえラスプーチンと
呼ばれても、全身全霊を戦後日本の復興に捧げたのだ、という筋書きに見えたが。

私の中ではプリンシプル、ダンディズム、ノブレス・オブリッジ・・・彼をもてはやす
いくつものキーワードがいっぺんに色褪せた。篆刻は「白」で、風化で白くなった
頭蓋骨の形象。彼の栄光は、膨大な戦死者の上にある。彼自身は自らのことを
多く語らなかったらしいが。徴兵逃れという大罪を抱えて、胸張って語れるような者
ではないことを知っていたからだろう。それならば男として、武士の情けで許そう。
比べるのも失礼だが、私は誰もが嫌がる全温度チアーから、逃げはしなかった。

靴下の、上下。(篆刻:下)

下
朝晩はめっきり冷え込んできたので、夜はたまらず靴下をはく。で、靴下の話。

P&Gの日本初の商品「全温度チアー」のCMは、我がGD社が制作した。
フィリピン人のプロダクト・マネージャーMr.Dがフィリピンなまりの英語で、
矢のようにアイデアをぶつけて来る。我々はそれを必死で書きとめながら、
CMらしきものにするしか、なす術がなかった。それは、天の声だったから。

ふたつ目の商品は毛糸・おしゃれ着洗いの「モノゲン」で、CMはD社が担当した。
生活シーンを切りとったスライス・オブ・ライフで、病院かどこかの待合室が舞台。
ある男の靴下のゴムがゆるんで下がっている。それを見た他の男が、ズボンの裾を
上げて、ゴムのしっかり締まった靴下を見せながら、「ウチは家内がモノゲンで」と
言う。すかさず、ゆるゴムの男が「いい奥さんで!」と嫌味たっぷりに返すのだった。

きっとMr.Dが "Oh! Nice Wife!!" なんて、お決まりのセリフを言いだしたので、
それを合気道のように、コロッとひねって投げ返したのだろう。それを見て、
私は衆人の前で靴下が破れて、親指が飛び出したように恥ずかしかった。
篆刻は、漢字の大元・甲骨文の「下」で、ものが掌の下にある形。反対の上は
掌の上にものがある。Mr.Dを手玉に取ったD社が上、言うなりになった私は下。

切れそうな、糸。(篆刻:糸)

糸
3万2000?2万6000年前と推定される最古級の亜麻糸が、グルジアの
洞窟で発見されたという。狩猟採集生活だった後期旧石器時代のもので、
植物の根の汁で黒、灰、青緑ばかりか、赤、黄に染めた糸もあったそうだ。

話はかわって、京都・西本願寺御影堂の平成大修復の番組で見た糸は、
和紙の紙漉きに使う簀(すのこ)の竹ひごを編む特殊な絹糸。漉き桁(けた)の
激しい動きに耐える強靭さが必要。まず生糸を6本束ね、古い"糸より機"の
大きな動輪で、よりをかける。その糸を4本束ねて、よりを反対にかける。
夏や冬は水分を足さないと切れる。よりにバラツキがあると、編む簀がねじれる。

この絹糸を作れるのは、日本で森島晶子さんひとり。岐阜県美濃市にある
和紙の里公民館を借りて絹糸を作る。夫と地元の職人から技術を受け継いだが、
採算がとれない。夫は公務員になることで家計を支え、糸作りを手伝っている。

西本願寺・平成大修復の総工費は57億円(約32億円が国、京都府、京都市の
補助金)余りらしいが、日本にはこの夫婦の生計を支える、1本の糸すらないのか。
和紙の国・日本の紙漉きが、いつ切れても不思議でない細い糸で支えられている。
平成の日本の文化レベルは、旧石器時代より貧しいのではないかと、ため息。

惹きつける、インド。(篆刻:印)

印
29年前の9月。広告代理店を辞めて、人に勧められるままに礼文島に行き、
数日後東京に行った。奈良に戻ったのは10月初旬でもう肌寒かったが、
酒向さんの奥さん・みゆきさんから戴いた刺し子の半てんが暖かく、助かった。

酒向さんはNHKのディレクターを辞めてから、長く定職につかず三年寝太郎の
ような暮らし。編集者のみゆきさんが支えた。しかし、ただ惰眠していたのでなく、
インドの神話『ラーマーヤナ』の映画化権をとり、自ら脚本・監督をして長編の
アニメーションを完成させた。ヒンズー教の文化圏では一躍ヒーローになって、
夫婦を国賓待遇で迎える国もあった。その旅の思い出を話すみゆきさんは、
本当にうれしそうだった。酒向さんが、次に企画したのは『クリシュナ』だったが、
まだ完成をしていない。そして、みゆきさんは4年前、74歳で亡くなった。

遺骨の大部分は、彼女の希望通りガンジス河に流したのだが。酒向さんの故郷、
岐阜県に墓が出来て、おととい納骨した。車で3時間弱、身内だけだったが
参加させてもらった。酒向さんは、すでに81歳で、身体も万全とはいえない。

篆刻は「印」。手で人を抑え、仰臥させる形。ふたりを惹きつけ離さなかった
インドとは何か。何回もインド旅行を誘われたが、その機会は無いままだった。

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