2013年1月

城跡に、登る。(篆刻:城)

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前・九頭神社宮司の奥西正俊氏がまとめられた『狭川の史跡と伝承』の年表では
狭川庄が成立したのは平安時代。室町時代には狭川庄の豪族として狭川氏と
福岡氏が登場する。惣領家狭川氏の下狭川城跡は前川と白砂川に挟まれた高台。
50?60年前まで狭川家の屋敷があり、いまは畑地だが、裾には馬場跡があって、
奥には累代の墓がある。東大寺長老の狭川明俊、〃宗玄氏はその子孫になる。

福岡氏の上狭川(福智福岡)城跡は西狭川と狭川東の境の山上にある。主要部は
東西30m南北60mの長方形で、周囲に1?3mの土塁がいまも残る。この地域の城
としてはきわめて完成度が高いという。その子孫・福岡孝悌は土佐藩士で山内容堂
の意を受けて二条城で徳川慶喜と会談し大政奉還を促した。五箇条のご誓文を起草
して文部大輔、文部卿を歴任する。現・狭川東町公民館は福岡家の館跡と思われ、
福岡氏の菩提寺・吉水寺に天文七(1538)年建立された十三重石塔が残っている。

鎌倉幕府打倒を目指して後醍醐天皇が笠置にこもったとき東部山間の豪族はすべて
笠置山に参じた。それを目指して鎌倉方の軍勢数万が狭川の村を駆け抜けたという。
大阪夏の陣で豊臣が滅亡。狭川の地侍は領地を失い戦功のあった藤堂高虎に与え
られた。のどかな狭川にも時代に翻弄されながら必死に生き抜いてきた歴史がある。

傑物が、いた。(篆刻:傑)

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津本陽の小説『柳生兵庫助』には、「兵庫助が刀傷を負った時、狭川の別荘に妻と
静養して、前の川に潜って大きな鯉をつかむ」という話があるが、フィクションだろう。

手元に『武芸流派大事典』という分厚い本がある。昭和44年、新人物往来社刊で
編者は綿谷雪・山田忠史。以下はそれからの転載。「【狭川派新陰流】狭川新三郎
助直。先祖は大和の狭川城主一万石、狭川上野亮助正。助正から助重-助貞と順次
して、助貞は織田信長に仕えたが、信長死して狭川城も陥った。助貞は上泉伊勢守
の門人。助貞の次子助信、父の業を受け、その子の新三郎助直に伝えた。助直は
柳生宗矩の門人となって、柳門四傑の一人と称された。延宝五年仙台候に召されて
師範となる。三百石。伊達綱村の師範として、これより新陰流を藩主自修の刀法と
定め、御流儀兵法といった。元禄八月十六日死す。五十五歳。仙台の向小田原の
万寿寺に葬る。男嗣子なく、娘に門人森島市助を配した。市助は名をあらためて
狭川新之丞助久という。家禄のうち百石を助直の皆伝門人桜田彦七に分知し、桜田
また狭川姓を名乗った(東藩史稿、他)。」 ここ狭川で昔から剣道が盛んだったのは、
地名にもなっている狭川家に柳生新陰流の名を背負う傑物がいたことがあるだろう。

しかし詳細な系譜は古老もご存じではないのではと、あえて書き記した次第です。

剣道を、教える。(篆刻:剣)

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なぜ奈良市の東部山間で土地や空き家を探したか。そこには柳生があるからだ。
30歳を過ぎて剣道を始めた。理由は袴をはきたいからで、会社の剣道部に入った
次の日には竹刀と袴、道着を買った。何だって形から入るのですよ、私の場合は。

だから柳生の隣の狭川に家が見つかったのは、本当にラッキーだった。四段を
目指していた頃、この家を譲ってくれた方が狭川の自治連合会長で、「狭川少年
剣道クラブの先生が高齢なので辞めたいとおっしゃる。継いでくれないか」という
話があった。代々の先生は人格者揃い。村の古老からは「狭川は昔から剣道が
盛んで、自分も県の大会で入賞した」と聞いていたし。自分ごときにはと固辞したが、
息子ふたりもお世話になったクラブだし、他に現役の方がいないならと引受けた。

会員は小学生の男女で、この狭川だけでなく、隣の東里の子も入れて10人ほど。
打てば響く運動神経のよい子もいれば、稽古になるとお腹が痛くなる子もいるが、
道場に入る時の礼はもちろん、その前に脱いだ靴の揃え方など、最低限の礼儀
作法だけは教えることにした。ところが数年前、「春には3人しか残らない、剣道の
希望者の有無以前に小学生自体がもう増えない」という事態に。父兄と相談のうえ、
ついに長い歴史の剣道クラブを終えることに。少子化には剣だって刃が立たない。

 

子どもが、いない。(篆刻:子)

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ルーマニアのゲオルギウという革命家は「もし世界の終りが明日だとしても、私は
今日、林檎の種をまくだろう。」と言ったそうだ。林檎は希望を意味する。中国の
『管子』には「一年の計は穀物を樹えよ、十年の計は木を樹えよ、終身の計は人を
樹えよ」の言葉がある。百年の計は人を育てることだが、さて狭川に子どもはいるか。

狭川地区の秋の運動会になると、「エッ、こんなに子どもがいたっけ!?」と驚くが、
狭川に住んでいない孫たちが親の実家にやって来たからで、実際狭川に住んでいる
小学生は10人前後ではないか。この西狭川町26戸では、たったひとりだ。狭川の
公民館横にあった幼稚園はずいぶん前に隣の大柳生に統合され建物だけになった
ままだ。店は、酒・タバコ・菓子などを売るよろず屋が一軒だけ。郵便局、農協は
隣の須川にあって、この地区で職場といえるのは土建業と鉄工所だけだから、若い
家族のほとんどが奈良市内や奈良に隣接する京都府に出てしまう。私の息子だって
奈良市の隣の郡山から大阪・茨木まで車で通っていたのだが、時間も高速代も
大変で、いよいよ辛抱も限界と大阪に越して行った。息子家族は、狭川もこの家も
好きだったから、離れを改造して住みたかったらしいのだが、それも叶わなかった。

篆刻は、正しい篆書体の「子」だけれど、なんだかお手上げに見えるのが、悲しい。

木を、植える。(篆刻:木)

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我が家の建つ土地は宅地なのだが広くはないから、隣接する元農地を借りている。
市道と里道(村の道)に囲まれた三角形で400坪ほど。住んですぐ人並みに
トマトを植えたが、大きな赤いトマトが雑草に埋もれて見えなかった。その後、畑
らしきものを作って茄子、胡瓜、オクラ、ピーマン、獅子唐などいろいろを植えたが、
最近はトマトを青いうちに猿がかじってポイと捨てるので、ついに野菜は断念した。

結局、花や木を植えることになったが、元は田んぼなので水はけが悪い。柑橘系は
だめだから、まずアジサイをあちこちに100本ほど。約30本の椿は100本以上に
増えた。桜は染井吉野、八重、啓翁桜、山桜、早咲きの河津桜など12本になった。

この狭川地区を見渡せば、桜がまとまって植えられた家はほとんどない。桜は毛虫が
つくから庭に植えるなというし、田んぼに枯葉が落ちるのを嫌うらしい。個人の庭は
仕方ないとして、桜並木はどうか。隣の地区の須川ダムには知る人ぞ知る見事な
桜並木があるが、狭川地区には両町に1ヵ所だけ。県道のバス停から集落へ続く
道で、見頃にはボンボリを点灯してくれる。昔は県道添いに並木もあったと聞いたが、
拡幅と舗装で消えたまま。途切れとぎれに生き残りの桜を見る程度なのが、寂しい。
せめて自分の敷地の市道添いに挿し木が出来る啓翁桜を増やそうかと考えている。

猿を、追う。(篆刻:猿)

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初めて奈良に来た知人を車で迎えに行くと、窓から奈良公園の鹿を見てキャーと
叫ぶ。我々には日常的で、春日大社の神の使いというより、観光客を呼んでくれる
ありがたい存在だが。柳生・笠置に向かう県道でも、夜に何度か出会って驚いた。
さすがにここまでは来ないが、笠置の隣の広岡町では山から下りて来て、作物に
被害もあるらしい。サントリーだかのCMで、動物園の動物と人間の居場所が逆転
して、人間がオリに入っていたが。笑い話でなく、もうそんな光景が広がっている。

有害鳥獣と呼ばれる御三家はイノシシ、サル、アライグマ。タヌキ、イタチ、ハクビシンなど
数えればきりがない。ほとんどの田はイノシシ除けの電気柵で囲んでいる。家庭
の野菜畑はサル除けのネットで覆われている。我が家に直接害があるのはサルだ。
モモやヤマモモがちょうど食べ頃になると、ボスから赤ん坊まで大ファミリーがやって
来る。BB弾の銃を持って抜き足差し足で近づけば気配で山に逃げ込む。目の前で
マウンティングした不届きなカップルもいる。市の農林課もロケット花火をくれるくらい
でお手上げ。猟友会が1匹射殺した時は鳴りを潜めたが時間がたてば元の木阿弥。

お客さんは緑が多い、空気が美味しいと感激するが。サル、イノシシ、アライグマ・・・
お好みをおひとりさま1匹ずつ土産にお持ち帰りいただけないか。お願いしますよ。

車で、通う。(篆刻:車)

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狭川地区の最寄駅はJR笠置駅だが関西本線は不便だから、大阪、京都へ通勤
するには近鉄奈良駅へ出る。バスに乗れば奈良まで40分かかり、1日8本しか
ない。結局みんな18歳になると免許を取って車に乗るから、バスを利用するのは
小学生かお年寄りだけになる。乗客減、赤字、本数削減の悪循環なのだが路線を
廃止することもできない。しかし悪いことばかりでもない。この路線は、奈良市街の
手前まで自由昇降区間で、停留所でなくても手を挙げると乗せてくれる。私は大阪、
奈良で飲む時はバスで出かけて、帰りはカミサンに車で迎えに来てもらうのだが、
バスの客が私ひとりということも多い。山間用のミニバスだけど、豪勢なもんです。

この山間部に引越すと決まって、ファミリアから中古のレオーネ四輪駆動に換えた。
「雪も降らんのに、そんな車で」と笑われたが、その冬に大雪が降って面目を保った。

それからジムニー、サファリ、鉄屑のようなベンツ、アコード、アバンシア、ロード
スターと脈絡のない車遍歴。家族4人で車4台という時期もあったが、いまは二人で
フィット1台をやり繰りしている。あと1回は車を買い替えることになるだろうが、その
頃には軽のハイブリッドか電気自動車が出るはず。まだその後に乗る車があった。
お年寄りが草刈機をかついで野良仕事に通っている、あの充電式のシニアカーだ。

米を、食べる。(篆刻:米)

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20代後半、マクドナルドのCMから会社案内まで制作一切を任されていた時に
藤田田(でん)社長が目の前で「日本の主食をパンにするんだ」と豪語したのには
「そんな無茶な」と呆れた。でも、あれよあれよという間に、その通りになりましたね。

ここ狭川地区のほとんどは兼業も含めた農家。西狭川町の月1回の集会でも
農協の支部長が自治会長の隣の上座に座る。野菜を出荷する家もあるが数は
知れていて、大部分は田んぼでの米作り。この家も大阪の息子家族も、親しい方が
手塩にかけたお米の玄米を農協に出荷する値段で1袋30キロごとに分けてもらう。

我が家の朝はホームベーカリーのパン食だが、主食はいまでも米。夫婦ふたりで、
その日食べる分だけを精米して食べる。新米が出る頃だって去年の米が美味しい
こと、この上ない。毎年、暮れの29(福)日は友人たちを呼んで恒例の餅つきを
する。土間で現役のかまどで蒸して欅の臼でつく。その餅米だって、庭から見える
田で作り、「はさかけ」という天日乾しを分けてもらったもの。多くの農家は乾燥や
脱穀の機械で普通の米に混ざるのを嫌って餅米は作らないから貴重品、いやいや
贅沢品なのだ。身近の親しい人が作ってくれる安心・安全、かつ美味しいお米が
毎日当たり前のように食べられるのだから。これ以上の幸せは、他にはないだろう。

朝日を、拝む。(篆刻:日)

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狭川が川に添った集落であれば、町によって陽の当たり方が違う。西狭川町は西に
あるから朝日が当たるが、その向いの狭川東町は朝でも日影になる。この家を見た時、
直感的に、いや衝動的にひとりで買うことを決めてしまい、カミサンや子どもには事後
承認だったが。よくよく見廻してみれば、何と有り難い立地にあるのかと気づいた。

家の正面と庭は東南を向いているから、一年中太陽も月も視界から上ってくれる。
正月には山越しに遅い朝日が玄関の正面から出る。家の下の市道は新しく県道が
出来るまでは奈良に続く川沿いの県道でボンネットバスが走っていたという。家は
そこから4、5メートル高いので流しのセールスはここに家があると気付かないらしい。

後ろの山の稜線は京都との県境で、台風の風は山側から吹くので影響がほとんど
ない。縁側のガラス戸が額縁とすれば、川、段々の田んぼ、雑木の多い山と空が
四季折々の絵を見せてくれる。風水では東の川:青龍、南の開けた土地:朱雀、
西の道:白虎、北の山:玄武の環境を四神相応というそうだが。それほどではないに
しても、四神らしきものに守られている感覚は確かにある。強いて難を言えば、向いの
空き地に土建資材が放置されていること、山の上に高圧塔があることだが。資材は
背を伸ばさないと見えないし、塔は雨や霧で隠れる。これで文句を言えば罰が当たる。

川が、流れる。(篆刻:川)

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奈良市の狭川地区は、狭川両町、西狭川町、狭川東町、下狭川町、広岡町だが、
そのうち下狭川町は奈良市合併の時、従来の垣内(かいと)名を通称としたので
下狭川奥町、〃川口城戸町、〃門前町、〃上町、〃中町、〃下町がある。自治
連合会もこの10町で構成されている。広岡町以外にはすべて狭川がついている。

『奈良町風土記続編(山田熊夫著、昭和54年、豊住書店刊)』では、狭川の町名は
前川をはさんで集落が発展したからというが、より正確には木津川に流れ込む前川、
安郷川、白砂川の流域にある。とにかく狭川と川は切っても切れないし、どの川も
源は春日原生林だから水はきれいで、当然うまい米がとれる。写真家の小川光三
さんからは、昔は奈良から米を買いに来る人を狙って山賊まで出たと聞いた。私が
引っ越して来た頃でも前の川にモクズガニがいたし、私の息子は白砂川に潜って
鮎を突いて遊んだ。広岡には大鰻がいたし、鯰も産卵に遡上していたと聞いた。

30年前は簡易水道だったが市の上水道になり、農業用水路に流していた家庭の
排水は下水道になった。横浜で釣ったクチボソに似た小魚はいまもいる。蛍だって
木津川に近い広岡町ほど多くはないが絶えることはない。河川の改修で護岸が
増えて風情がなくなったのは残念だが、狭川はいまも川に寄り添って暮らす町だ。

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