2013年2月

掃除機に、呆れる。(篆刻:呆)

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J電機にダイソンのサイクロン掃除機を買いに行ったのだが、店員がこう言った。
「ダイソンは吸込みの力が弱いですよ。いまサイクロンなら、これです」 これとは
東芝で、その言葉を信じて買った。畳のイグサの間が見えるほどきれいになって
感激したのだが。それも長続きはしなかった。本体が熱くなって、持てないほど。
小まめなゴミ捨てが必要だし。迷路のようなトンネルの角々にチリが引っ掛かる。
迷路の丸いフタの爪が折れる・・・有料5年保証のうちは良かったけど、6年目に
床ブラシを1万2千円で交換した。それから1年足らず、ゴミを捨てたのに赤い
ゴミ・サインが出る。吸わない。異音がする。で、修理の見積もりをとったら、5ヵ所
で合計2万1千円だという。その内、2ヵ所はJ電機もどこか答えられない。直接
東芝に聞きたいと教えられた電話は、ただの修理相談窓口だったから答えられる
訳がない。結局、東芝で見積もりした当人からの電話を待った。それでやっと分か
ったのは、いちばん大きな問題個所は床ブラシだということ! もう、その時には
アマゾンで買った日立の紙パック式掃除機をご機嫌で使っていたから腹も立たない。

篆刻は「呆」れるだが、ひどく呆れることを呆気(あっけ)にとられるという。呆れる位
ならいいが、こんな会社が原子力発電所も作っている。呆れている場合じゃないぞ。

aか、bか。(篆刻:a・・・b)

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芥川賞の単行本を買ったのは久しぶり。『abさんご』は受賞作のそれが横書きで、
受賞前の作品群は縦書き。いわゆる表1と表4の真ん中に「なかがき」がある。
表4の帯を見て驚いた。「前代未聞のリバーシブル本!」だって。何が前代未聞な
ものか。私が5年前に制作したクラボウの『創業記念』小冊子は、事業部の歴史
《クラボウ烈伝》が横書き、二代目社長・大原孫三郎の《やる可(べ)し、大いにやる
可し。》が縦書きで、真ん中の見開きに社長の挨拶があるから、まったく同じなのだ。
では、それが私の独創かといえば、そうではない。写植のモリサワが1983年から
2002年まで発行した季刊PR誌『たて組みヨコ組』こそが原型。アートディレクション
だけでなく編集企画までを田中一光と勝井三雄が担当したから、尋常ではない。心
あるデザイナーなら知っていて当然の印刷物。文芸春秋の担当が知らずとも、また
装丁のデザイナーが知ってか知らずか。結果的には史上最高齢という記念すべき
出版物を辱めないのか。こんなことで書きたいことが書けなくなったが。1963年の
「毬」、1968年の「タミエの花」、1968年の「虹」は、どれも暗い少女のこころの話だが、
透明感があって好感が持てた。さて2012年の「abさんご」は観念的にすぎ、それを
作者が知っているから、こんな読みにくいひらがな交じりにしたとしか思えないのだ。

光が、来た。(篆刻:光)

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テレビ放送60周年とかでNHKはお祭り騒ぎをしていたが。狭川では生駒からの
テレビ電波をダイレクトに受けられるのは狭川東町の一部だけ。しかも東の山の稜線
に立つ関西電力の高圧塔で電波障害があるからテレビは関電が建てた共聴アンテナ
からケーブルを引いて見ていた。ある町のある人に関電社員が、口をすべらせた。
「高圧塔で電波障害があるにしても、元々難視聴地域でしょう」「そんなこと言うなら、
高圧塔を切り倒してみたらどうや」 きっと地侍の強者の子孫に違いない痛快な一撃。

インターネットも電話回線のADSLだった。私は広告で使う画像を探すとき、50とか
100の小さな画像から選ぶことがあるが表示されるまでの時間が無駄だから、篆刻を
彫ったりしていた。さて、テレビが地上波デジタルになったとき、デジタルだろうと
難視聴は変わらない。関電は採算がとれないから光ケーブルは引かないという。

結局、奈良市の出張所や学校には光ケーブルが来ていたので、それを近鉄
ケーブルネットワーク(KCN)が地域全体に伸延することになった。光ケーブルが
我が家に引かれた日の感動は忘れない。いま私のSOHOでは100メガの光で重い
画像のやり取りだって瞬時にできる。少子高齢化、過疎化が進んでいる狭川だが、
もう情報格差はない。狭川にも、無限の可能性がある。知恵とやる気さえあれば。

※1月21日から15回続けた連載も、きょうで最終回です。現在、小冊子『狭川帖』にすべく印刷・製本中。
※「わたしのマチオモイ帖」展の奈良県・和歌山県・三重県の会場は奈良県図書情報館で、会期は2月26日(火)~好評につき3月31日(日)まで延長になりました。

天皇陵が、あった。(篆刻:天)

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狭川10町で唯一狭川と付かない広岡町は、昭和54年刊の『奈良町風土記続編』
に11戸とあるが、現在7戸だけ。しかしその歴史は奈良時代にさかのぼるほどに
古い。天平時代の753年に廣岡夫人がこの地に普光(廣岡)寺を建立した。広岡
の地名は廣岡夫人からか、廣岡に住んだから廣岡夫人なのかは謎のままだ。夫人
は恭仁京(木津川市加茂町)の中心人物で葛城王だった橘諸兄の弟・佐為の娘、
光仁天皇の皇后または聖武天皇の夫人だった。『続日本記』は781年に光仁天皇
が廣岡山稜に葬られ、6年後に田原に改葬されたとする。光仁天皇陵は普光寺の
跡で、広岡九頭神社の裏手、榊の古木2本が残る。広岡九頭神社は創建年不詳
だが祭神は狭川と同じ天手力男命。狭川九頭神社は九頭大明神、五社大明神、
戸隠神社などとも呼ばれたというから、広岡の方が狭川より古いかもしれない。

広岡の西側山頂には経ヶ塚がある。経ヶ塚は南北朝時代の笠置合戦で護良親王が
陣地を設け、笠置寺の鬼門なのでお経を埋めたという。明治には経ヶ塚から広岡
九頭神社に秋葉神社が移転される。広岡は下狭川から3キロで、川向こうは笠置町。
市北東の端だが、狭川地区の歴史と由緒を物語る土地であることは、誰も疑わない。

広岡は蛍が多い。夏、川から湧くように飛ぶ夜景は古代の記憶にも似て、幻想的だ。

祭りを、守る。(篆刻:祭)

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私は秋の祭りまで、狭川の氏神様・九頭(くず)神社の西狭川町の信徒総代に
なっている。総代といっても歳の順で連絡係のようなもの。30年前に来たよそ者が
室町時代からの家に交じって多少なりともご奉仕できるのは、本当に有り難いことだ。

九頭神社は上狭川と下狭川の境界にあり、主神は天手力男命(あまのたぢからおの
みこと)で天照大神が隠れた天の岩屋の戸を手で開けたという大力の神。九頭とは
竜神で水神として水を恵み、里人を水害から守る田の神でもある。創立年代は不明
だが最も古い石灯篭に1489年の銘があり、手水舎横に樹齢500年の銀杏樹がある
ことから室町時代とされる。狭川氏が1384年春日おん祭に奉仕して以来春日大社と
縁が深く、古い時代の春日田楽が両・西の宮座・敬神講によって受け継がれている。

奉納する田楽はピッピラ、バタラン、コハイ(鼓拝)、タチハイ(太刀拝)で相撲や
翁舞と合わせて県指定無形民俗文化財。翁舞に使われる翁の面は2代目で初代
の面は箱書により室町時代後期の作。県立美術館に委託保管しているが、宮司の
辻孝氏は自らの手でその復元を進められた。ノミを持ったこともない辻氏が指導を
仰いだのは仏師・由谷六九拾さん。私と前後して土地探しをした友人で、我が家の
玄関の阿形の仁王さんは狭川に越した時の彼からのお祝いなのだから、これもご縁。

仏を、めぐる。(篆刻:仏)

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我が家の向かいには泥掛け地蔵と呼ぶ石仏がある。泥をかけて祈ったのではなく、
土をいくら盛っても崩れる斜面の上にあるかららしい。毎年正月に赤い前垂を新調し、
孫たちも連れて参るのだが。3体並んだ姿はお地蔵様ではなく、観音様のようだ。

このように名もない石仏の数は狭川地区には無数にあったらしく、その多くは道路の
拡幅などで撤去され、両町の光明寺(融通念仏宗)にも数多く集められている。その
両町の県道そばの桜並木には5人斬り磨崖仏という大きな石があって、本能寺の変・
山﨑の合戦で斬られた落武者を弔うために建立との言伝えがある。西狭川町の山裾
に吹き出物を治すジョウセン(飴)地蔵、狭川東に子宝祈願の子安地蔵、下狭川
に歯痛地蔵などがある。明治時代、静海という僧が自らを刻んだ石も残されている。

古い仏像も数々残る。両町集会所には1520年の銘がある毘沙門天木造がある。
下狭川の中墓寺(融通念仏宗)にある平安時代の薬師如来像、阿弥陀如来像
(2体)は県の重要文化財に指定されている。仏像ばかりでなく、古い観音様の
掛軸を婦人たちが囲む観音講や十九夜講などが東部山間には多く残る。この西狭川
は2、6、10月と年3回の二月堂参りを続けていて、つい最近まで白い帷子が入った
木箱を当番に廻していた。ちなみに、この地域では現在でも土葬が許されている。

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