2014年8月

不常識『篆刻講座』 4:四角四面を、跳び出して。

2014820114413.gif「クウ、ネル、アソブ(45×45、15×15ミリ)」
篆刻では「方寸の世界に遊ぶ」という言葉があります。実際に彫るのは一寸(約3センチ)四方の小さな石だとしても、そこを自分の世界、いやおのれの宇宙と見立てて大いに遊ぶべし、ということ。要するに小さく固まらず、縦横無尽、天衣無縫にやろうじゃないか、ですね。

以前の三游会で、若い女性から「好きな言葉は、食う・寝る・遊ぶなんですけど、篆刻にしてくれませんか」というお話があった。面白いですね、やってみましょう、とお受けして、さ~てと考えた。漢字の「食・寝・遊」も無いことはないが、娯楽系サークルのモットーみたい。ならばカタカナで、となるのだが、そこから先の工夫が欲しい。

いま思えば、遊ぶ→ゲーム→ジグソーパズルと連想したんでしょうね。右からクウ、ネル、アソブを並べて、それが読める範囲の場所に、ジグソーのピースふたつがはまるようにした。ふたつのピースは別の石で彫ったから、押すときに離したり近づけたりできる。カタカナの太さに強弱をつけたのは、同じ太さにすると線が単純化されて読みにくいから。

わざわざ読みにくくしておきながら、それでも読みやすさに配慮するのだから、ややこしいけれど。これぞ、遊びの楽しさです。私は篆刻で言葉を彫って暮らしを彩るアートにしたいけれど、アートこそココロとアタマの遊びです。今日、私は70ちょっと手前の誕生日ですが、ホントに人生は「クウ・ネル・アソブ」がよろしいようで。

 

空き家、あります。(篆刻:家)

201488113244.gif
先日、奈良市内に住むイギリスの友人が、この地区の空き家を見に来たので同行
した。築30年ほどでしっかりした木造だが、外の排水が悪く、台所の床が傷んで
いる。風呂とトイレが古い別小屋で、建て直しと下水工事が必要。敷地もそれほど
広くない。結局は見ただけに終わったが、この地区にはまだまだ空き家がある。

私が空き家探しをした35年ほど前、どの地域にも空き家はあったが、売る人など
ほとんどいなかった。「家屋敷を売るなんて、よほど金に困っているな」と言われる
のを嫌ってのこと。2、3年前に住めそうだった家が朽ち落ちているのを何軒も見た。
いまは外聞など気にせず不動産屋で売りに出すけれど、なかなか売れるものでは
ない。去年の全国空き家数は820万戸、空き家率13.5%。わざわざ不便な山間部
まで来なくても、空き家は有り余っている。更地にしにくい税制の問題もあるけれど。

住宅ばかりでなく統合された中学校や幼稚園、さらには農協の建物までが再利用の
メドもなく放置されている。再利用すれば必ずコストが発生するからだ。私はここから
片道1時間半で大阪に通勤していた。イギリス人の彼も奈良市内から東南アジアに
仕事で頻繁に出かける。時間的には不便だけれど、時間に替えられない何かを優先
するという価値転換がないかぎり、空き家は増える、過疎化も進む。特に、地方では。

 

不常識『篆刻講座』 3:お行儀ばかりが、良くっても。

2014731182110.jpg 「拈華微笑(50×50ミリ)」

お盆には少し早いけれど、篆刻は「拈華微笑(ねんげみしょう)」。釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で説法した時、蓮の花を聴衆に拈(つま)んで示したら摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意を悟って微笑したので、正しい法は迦葉に伝えられたという故事、いわゆる以心伝心です。

さて、これを四角い石に彫る場合、普通は右に縦で拈華、左に微笑を置いて田の字にする。または「幸都萬具」のように、右から左に縦長に四文字を並べる。どちらも文字は同じ大きさになる。お行儀はいいけれど、面白くはない。なぜなら、あえてこの四文字を選んで彫った、その人の解釈が見えないから。

楽篆堂は、考えた。拈もうが捩(ね)じろうが、とにかく釈迦は蓮を差し出した。迦葉は静かに笑ったが、悟った瞬間だから「あぁ」くらいは言ったかもしれない。要は釈迦の「花」と迦葉の「笑」であって、他は形容、説明にすぎない。そこで「華」と「笑」をほぼ対等に大きく扱う。それでも「拈華微笑」と読んでほしいから、右からの順は崩さず、拈と微はすき間に溶け込ませたのだが、いかがだろう。

「いわゆる篆刻」は雅味を尊ぶから、だいたいお行儀がいい。でも、篆刻は表現であり、コミュニケーションなのだから、漫然とした表現ではなくて、まず作者の自己表現でありたい。自己表現ならお行儀などと言ってる場合ではない、と思うのだが。いや、その時迦葉がゲラゲラ笑ったら釈迦は不愉快だっただろう、やはり「微」が肝心、という穏健な解釈だって有りうる。そんな微を強調した「拈華微笑」も見てみたい・・・怖いもの見たさだけど。

 

ページ上部へ