アート

「天からの、贈りもの。」④氏子も、賛成する。(篆刻:氏子)

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狭川・九頭神社は宮司ひとりと、9町を3ブロックにした代表・氏子総代3人で支え
らえている。4人は、毎月1日、18日に月並祭を行い、運営について協議・決定し、
それを9町の信徒総代に伝えて、協力を依頼する。3月1日に宮司が巨木アートの
話を氏子総代にする。昼過ぎに宮司が来て、4人で現物を見たい、4日に行きたいと
言ってきたのだが。相手のあることとだし、自治会の都合もある。自治連合会長にも
来てもらって、2人の前で藤井雅子さんに電話をした。4日で構わないと言ってくれた
ので、神社、自治会、出張所の総勢9人で伺うことをお願いした。さて、3月4日に。

案の定、誰もが巨木のすごさに圧倒された。せっかく人数がいるからと、主な作品を
撮影し、寸法も測って、記録した。帰り道にやぶっちゃ温泉がある。食事をしながら
感想を聞くと、「神社と狭川の活性化のためにいただこう」と全員の意見が一致した。

帰って早速竹内さんに電話をすると、ちょうどいま、ふじい夫妻から郵便で確認書が
届いたといい、すぐにファックスをくれた。「巨木アート作品及び材木等を当方の要請
により無償にて譲り渡す」。忠一さんが震えながら、奥さんはしっかり捺印してくれて
いる。私がハシゴを外されることにならないようにと竹内さんが配慮してくださったこと。
奥さんにお礼の電話を入れると「忠一に会って欲しい、明日病院で」という急展開に。

「天からの、贈りもの。」③狭川に、やる気を。(篆刻:ヤル気)

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竹内夫妻が快諾してくださったので、お礼に美味しい蕎麦を食べていただくことに
した。というのも、一緒に巨木を見に行った守田蔵さんは、浄瑠璃寺門前で蕎麦屋を
していて、拾子さんも行きつけだったから。蔵さんと知り合ったのも拾子さんの紹介。

蕎麦をいただきながら、蔵さんに「狭川の町おこしに使わせてもらうことになった」と
話す。蔵さんは、かつて白洲正子に愛でられた陶芸家だし、現在は正倉院御物の
撥鏤(ばちる)の復元をしているアーチスト。付合いのある奈良工藝館にふじい忠一
さんが巨木を手放す話をしていたようで、そもそもアート作品をタダで貰うことには
反対のようだったが、そこまで話が決まっているのならと、なんとか賛同してくれた。
その後、車で15分足らずだからと、九頭神社を見ていただくことにした。3人は鳥居を
くぐって、階段を拝殿まで登り、参拝を済ませて「いい神社ですね」と言ってくださった。

ここまで決まったのだから、次のステップに進もうと、25日に宮司、自治連合会、狭川
の会、市・出張所の振興係、5人に集まってもらって、事の次第を説明した。ひとりは
半信半疑だったが、4人は賛成。「巨木アートで、狭川を活性化しよう」という方向は
定まった。誰も思いつかない巨木アートが狭川を刺激する。「やる気があれば、巨木も
曲がる」、「やる木、げん木」というキー・ワードも決まった。いよいよ、巨木が動き出した。

蔦屋(ツタヤ)へ、綱渡り。(篆刻:蔦)

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ありがたいご縁があって、枚方(ひらかた)T-SITEで、8月20日~26日まで、篆刻展
「言葉を、花に。」をさせていただくことになった。枚方はCCC創業の地で、蔦屋書店を
核に、床面積は代官山、湘南を抜いて最大。その4階イベントスペースをお借りする。

篆刻の額装、軸装、そして石そのものも販売するので、品番とバーコードが用意されて、
いつもとずいぶん勝手が違うけれど、9日に最終打ち合わせを終えて、いよいよ準備は
詰めに入る。篆刻を和紙に押した時期が猛暑で、印泥(肉)がべたついて手間取ったが、
なんとか裏打ちも出来上がって、それを額に収めるのだが。ここで思わぬ大問題が発生。

額縁は日本の業者がタイの工場で作っている。予定では楽々間に合うはずだったのだが、
コンテナを積んだ船が台風13号で港に接岸できない、台風が通りすぎると盆休みになり、
画材店に届くのが搬入前日の18日だという。裏打ちした印影は渡してあるし、窓を開ける
マット紙も決めてあるので、出来ることは全部済ませて、額が届いたら、即それを入れる。
夜中でもやります、と言ってくれている。搬入の19日に受け取って、その足でT-SITEに
向かうことになりそう。ただ、展示の準備は夜8時の閉店から、というのが、唯一の救い。
無事、20日の10時に開始できるか、綱渡り。蔦(つたかずら)が木にからまるのは吉祥と
されるらしいけれど、偶然8月20日は私の72歳の誕生日。ただただ吉祥を願うばかり。

創造は、思いつき。(篆刻:壮馬&ピアノ)

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五風舎の個展では「素晴らしいですね」と言ってくださる方もいて、そんな時は「いえ、
思いつきばかりで」とお答えしたのだけれど。大映京都撮影所の名録音技師だった
故・大谷巌さんが「芸術っていうのは、その場その場の思いつきだ」と言っていたと
毎日新聞で読んで、やっぱり!と膝を叩いた。私の篆刻が芸術とは言わないけれど。

篆刻は、ピアノの演奏・教育をされる方からの「ピアノと姓名を」とのご希望だったが、
名前だけの方がすっきりするのではと名字は入れないことにした。ところが、実際に
デザインしてみるとピアノのへこみが気になるし、もったいない。漢字では重いし邪魔
だけれど、カタカナなら入りそうと思いついた。書いてみたら縦の線が音符になりそう
だと、また思いついた。その思いつきをラフにして見ていただくと、「発想豊かなデザ
インですね!個性的で、遊び心があります!この案で進めてください。」とお許しが出た
ので、精度を上げてフィニッシュにかかった次第。思いつきで、こんな篆刻になりました。

思いつきといえばその場しのぎに聞こえるけれど、経験を重ねるうちに増えるアイデア
の抽斗(ひきだし)ではないか。莫山先生から聞いた「中国の篆刻家が弟子入りを頼ん
だら、師はただ空箱を突き出した。これに彫った石屑が溜まったら、またおいで。」という
話を思い出した。四の五の言わず、ただ彫る。その経験から思いつきは生まれる、はず。

書が、判らない。(篆刻:書)

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先週の「情熱大陸」は女性書家の中塚翠涛。ルーブル美術館での展覧会に招待
されたのに驚いたが、それで二つの金賞をもらったというから、もっとビックリした。

こういう私の書道歴は小学校で教室に通い、県の教書大会に学校から選ばれて
行った程度だから、以下は素人のたわ言に過ぎないけれど。彼女の書の感想は、
「この程度の字を書く人は日本にどっさりいるだろうに」ということ。名のある書家の
篆刻も彫らせていただいているし、毎日新聞だから書の記事が多く、ほとんどに
目を通しても、私が双璧と思う良寛と会津八一をしのぐ書を見た覚えがない。まあ
ビートルズを超えるミュージシャンを知らないのと同じ話になってしまうのだけれど。

ただ面白いなあと思ったのは、彼女がルーブルのための作品を構想するにあたって
篆書体に大きく傾斜していたこと。書体に何の制限もないとき、また漢字を知らない
人々に漢字の面白さを伝えたい場合、誰もが整理されすぎた楷書ではなく、文字が
生まれたときの物語を色濃く残す篆書体の魅力にすがるのは、自然の流れなのか。

これを書く前にWikiで見たら、彼女は元モデル、現在もPR事務所所属で美人書家
が売り言葉だとか。女性書家は美人じゃないと有名になれないなんて風潮は勘弁して
欲しいけれど、金賞二つもくれたのはフランスだから美人に弱いのは仕方ないのか。

不常識『篆刻講座』 10:甲骨文を知らなかった篆刻家たち。

2015121911449.jpg 「写真:亀甲(部分)」
今回は篆書体の話ですが、中国の篆刻家にも関わることなので興味のない方はスルーしてください。
さて、写真は亀の腹甲に刻まれた文字で、3200年ほど前、古代中国・殷の王が天の啓示を占った記録。牛の肩甲骨もあるので甲骨(亀甲獣骨)文と呼ばれます。劉鶚(りゅうがく)が1899年に発見し、1903年には資料集を出版したけれど、科学的に発掘されたのは1928年からのこと。それに参加した董作賓(とうさくひん)によって初めて甲骨学が大成されたけれど、彼は甲骨文の原形はさらに1500年前に遡るだろうと言っています。

ここから篆刻の話です。戦国時代に始まった印章や始皇帝が定めた官印などはパスして、北宋の米芾(べいふつ)を開祖とする文人が自ら刻んだ篆刻のこと。明の時代に彫りやすい石の印材が知られて、一気に広まった篆刻は、18世紀になって丁敬を祖とする浙(西冷印)派が興り、優れた篆刻家を輩出します。さらに清時代には鄧石如が革新を行って、呉譲之、徐三庚、趙之謙などが育ち、清末期には呉昌碩、黄士陵、斉白石など次々と優れた篆刻家が現れた、となるのですが。

ここで名をあげた篆刻家のなかで、趙之謙までは甲骨文が発見される前に亡くなっているから、その存在すら知らなかったのです。私が好きな黄士陵は金文を巧みにしたけれど、1908年没だから甲骨文発見を聞き、資料は見たかもしれない。呉昌碩は1927年没だから本格的発掘の成果はもちろん、その解読研究も知らないのです。

いま篆刻をされる方々が誰を尊敬し、誰の作風に習おうとご自由なのですが、甲骨文という文字が生まれたときの生き生きした姿とそれにまつわる物語の存在すら知らなかった篆刻家やその作品にどう向き合うべきなのか。彼らに非はないし、尊敬もするけれど、土の奥深く埋もれていた原初の文字を知らないまま、体系化、様式化されてからの秦や漢の篆書体とそれを刻んだ作品を、私は手放しで素晴らしいとは言えません。いかがなものでしょうか。

拝啓 篠田桃紅様 (篆刻:創)

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NHKで篠田桃紅さんのドキュメンタリーを見た。私の亡くなった母と同じ大正2年の
生まれで102歳。ディレクターにいきなり「取材で真実が撮れるなんて思い上りよ」と
カウンターを浴びせるのだから、まだまだ元気。「人間が桜を可愛いなんて」、「桜の
方が人間は可愛いと思っているでしょ」と、自然に比べれば人間は小さなものと、また
脳天に一撃。妻にならず、母にもならず、女独りを貫き創造を持続してきたのだから、
精神の強さは尋常ではないだろう。こういう女性は苦手だけれど、敬意は表したい。

5歳頃から書を初めて前衛書で高い評価を得ながらも、書から水墨の抽象画「墨象」に
転じた理由は。「文字は文字の決まりを越えられないから、いくら何をしてもアレンジで
しかない、書はクリエイション(創造)でないから。そこに収まりきれなかった」というが。

その論法なら、生け花は花のアレンジに過ぎない。写実は創造ではなく、抽象だけが
創造ということなのか。自らを律する理屈だから他に害を及ぼすものではないのだが。
細い3本の線で月のような形を書いて、題は「月」。文字としての制約を逃れたいのに、
自らがつけた題で月と読む(見る)ことを強いているのが気になる。余計なお世話だが、
その偏狭ゆえにもっとおおらかで自由な何かを見失うことはなかっただろうか。篆刻と
いう「書体のアレンジ」でも、まだ新しい何かが創造できると、私は信じているのだが。

知能は、まだまだ結晶する。(篆刻:結)

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吉田脩二先生は『ヒトとサルのあいだ 精神(こころ)はいつ生まれたのか』(文芸
春秋)で人の未来へ大きな希望を与えてくれた。私の病気にも最適な薬を処方
してくださり治ることができた大恩人だが、現在は著作と絵画(とゴルフ)で充実の
日々を送られている。毎秋、大阪で絵の個展をされるので先日もお会いできた。

今年は桜島、八ヶ岳、御嶽山など山の絵の集大成で、おおらかな姿と自由闊達な
色でまた元気をいただいたのだが。絵は歳をとっても上手くなれる、という話から
「流動性知能と結晶性知能」に話が及んだ。流動(性)知(能)は計算力、暗記力、
集中力など受験に反映されるような知能で18~25歳くらいがピーク。結晶知は知識、
知恵、判断力など経験で蓄積し磨かれるので、年齢とともに伸びて60代頃がピーク
だが下降は流動知よりずっと緩やか。脳細胞の数は加齢によって減るが結晶知が
伸びるほど細胞の分枝が増え、連動して動き出す。しかもこのネットワークはやる気、
面白さを感じてドーパミンが増えるほどつながりやすく、脳のどこかが阻害されても
バイパスルートができやすい認知的予備能になるという。もちろん結晶知はただ漫然
と歳を重ねるだけでは伸びない。仕事でも遊びでも構わない、やる気や快感をもって
取り組めるものがいい。吉田先生には絵が、私には篆刻がある。あなたは何だろう。

不味そうな、エンブレム。(篆刻:味)

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いままで喫っていたキャビンがウィンストンになって、パッケージも変わった。中には
「味・香りは変わりません」という紙が入っているが、2箱喫ってもキャビンの味・香りが
しない。パッケージが変わっただけだろうが、視覚的印象は味覚にも大きく響くものだ。

さて、2020年のオリンピックのエンブレム。これには驚いた。第一印象は、暗い、堅い、
希望がない。TOKYO、TEAM、TOMORROWのTだというが、どれだけの人がTと
読めるのか。それに、3つの意味がお粗末。中学の美術のデザインみたいで、思想も
コンセプトもない。すべての色を混ぜると黒になるというのも時代錯誤。光の三原色は
混ぜたら白になるけれど。デザイナーは佐野研二郎、審査委員は永井一正、浅葉克己、
細谷厳(敬称略)たちらしいが。おまけに間髪を入れずベルギーの劇場のロゴを作った
デザイナーから盗作の抗議が出たから、国立競技場の白紙撤回に続く赤っ恥になった。

篆刻も文字のデザインである以上、盗作の危険は大きいけれど。「いわゆる篆刻界」では
いちいち非難されることはないようだし、そもそもオリジナリティなど求めていないのでは、
とも思える。少なくとも楽篆堂は、同じ漢字でもその都度新しい試みを心がけている、つもり。
HPで作品を公開するということは、膨大な無名の審査員の眼にさらされているのだから。
トップだけ見る人にも何ページも見てくれる人にも、後味の悪い思いはさせたくないから。

 

『あまから手帖』と宮脇綾子さん。(篆刻:あ)

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『あまから手帖』は関西ではよく知られた食の雑誌だと思う。創刊は1984年だから
雑誌としては老舗になる。京阪神エルマガジン社の発行で、初代編集長は重森守
さん。この編集レイアウトは私のいた会社がやり、巻頭の料理写真に添えた文章は
食などにまったく興味のない私が知った振りをして書いた。コピーライターは、そんな
ことを平気でする。それはさて置き、表紙を飾ったのは宮脇綾子さんのアプリケだ。

京都の伊勢丹で生誕110年の展覧会があったので、懐かしさで見に行ったのだが。
カミサンから「宮脇さんの作品を表紙に使ったのは、布好きのカミサンが読んでいた
家庭画報を私が見て、起用を提案した」と聞かされた。そんな経過は忘れていたが
お役に立てたのはうれしいこと。創刊号は「干しえび」だが、思ったより大作の実物を
拝見できた。どの作品も布への愛着とその布や柄を何とか生かしてあげられないかと
いう機知と工夫に富んでいて、とても素晴らしかった。「でも手仕事の部分はかなり
荒っぽいな」とつぶやいたら、カミサンは「次々にアイデアが出るから、細かい部分に
こだわっていられない」という。カミサンも布の細工をするから、なるほどなァと納得。

さて、重森さんも亡くなったあまから手帖の現在は、大人の愉しい食マガジンとして
クリエテ関西という会社の発行。私、食に関心はないけれど、頑張ってほしいです。

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