プロの、ちから。(篆刻:自力)

自力
20代の後半、特に理由もなく、坊主頭にした。社長が、クライアントに私を
紹介するたびに、頭を指差して「こうしてアンテナを尖らせていますから」と言った。
そう言われれば、感度が良くなったような気もしたが、もちろんただの錯覚。
以来、気分転換でたまに長髪にしたけれど、ほとんどは坊主がすこし伸びた
くらいで通してきた。いまでは息子も孫も、男3代が、こんな頭をしている。

この前、大阪の理髪店で50歳前後の店員に「五分刈りぐらいで」と頼んだら、
「五分って、何ミリですか」と聞かれて驚いた。北京五輪の野球が惨敗で、
ダルビッシュ、川崎に続いてG.G佐藤までが坊主になった。五分か、一分かは
知らないが、どうせ頭を丸めて詫びるならば、ツルツルにしなくちゃいけない。
しかも、それで済むなら、星野監督以下コーチ陣が、まず坊主になるべきだろう。

真のリーダーなら、坊主などやめろ、全力を尽くしたと胸を張れと、さとすべきだ。
まぁ、ストライクゾーンをまだ言っているようじゃ、無理だけど。篆刻は、先日の
「他力」と対の「自力」。玄侑宗久さんは、「言葉で理解できる範囲のこと」と約すが。
自らの力を尽くす。自分の力だけではどうしようもないことがあるのを認める。
そして、結果を素直に受け入れる。それが、プロ。5ツ星ホテルなんて、まだ早い。

これって、縁なの。(篆刻:隨縁)

随縁
もう15年も前のことだけれど。大阪のニコンサロンだったかで、写真展を見た。
モノクロの女性ヌードで、ヘアーが床まで伸びて、しかも三つ編になっている。
なぜかパーティーにも出たのだが、そのモデルが傍にいて、横浜から来たという。
横浜はどこ、と聞けば、鶴見だという。「へぇ、僕も鶴見で生まれたんですよ」と
言ったら、「それが何なの」という顔をされた。私は奇遇だと思ったのだけれど、ね。

鶴見といえば、我が家の向かいの家の裏は崖で、その下には大洋ホエールズの
ホームラン王・桑田選手が庭で素振りするのが見えた。「それが、何なのさ」、かな。
それなら、巨人軍の倉田という投手は、高校の同級生で、数学のテストでは
カンニングさせてもらった、というのは? やっぱり「だから、何なのさ」、かな。
ならば、これはどうだ! 先日、早稲田大学の広告研究会の後輩が訪ねてきた。

4年後に創部百周年なので、記念事業でインタビューなのだという。先輩たちの
話になったが。「あの福田康夫総理が、昭和34年卒業で副幹事長だったのは、
ご存知ですか」と聞いた時は、ポカンとしてしまった。私も副幹事長だったけれど。
篆刻は、「随縁」。ご縁に随うにしては、遠すぎる。62年前のきょう、鶴見で生まれ、
大学のサークルでは福田さんの後輩だけど。「だから、何なのだ」と、独りつぶやく。

わが計らいに、あらず。(篆刻:他力)

他力
彼は、東京の時計屋の三男だった。大学の成績は4年間全優。広告研究会で
幹事長になった。幹事長になる前の2年の時、夏のキャンプストアのポスターを
デザインした。私のコピー「砂に残した足跡は、波が消してしまうけど」を受けて、
自分の足の裏に絵の具を塗って、紙の上を歩いた。早慶戦のための小冊子の
編集長もした。大阪のM電器に入社したが、希望の宣伝事業部ではなかった。

奈良の女性と出会って結婚して、男の子が産まれたが。彼女は社宅で、幼い子を
道連れに自ら世を去った。上司の配慮で東京に転勤になった。数年後に再婚して、
一男一女を授かり、胃潰瘍を克服して、事業部長格になった。私が紹介した店を
接待や部下の慰労で使っていた。数年前のある夜、私がたまたまそこにいたら、
彼も1人で来た。かなり酔っていて「きょう、早期退職の辞表を出した」と言った。

PR会社の契約社員になって、省エネ・環境関連のPR誌を企画した。創刊号で、
自ら施主として納入事例に登場し、写真にも納まった。その笑顔は、ついに
クリエイティブに関われたうれしさだと思った。その約1年後。彼はすい臓ガンで
逝った。遺影は、あのPR誌にあった、あの笑顔だった。篆刻は、「他力」。
五木寛之の『他力』に、その意は「生病老死、わが計(はか)らいにあらず」とある。

苦しみを、抜けて。(篆刻:抜苦与楽)

抜苦与楽

全22巻の『開高健全集』を、奈良県立図書情報館で2巻ずつ借りて読んでいる。
嫌な感じを「酸」といい、電車を「古鉄の箱」という、彼独特の例えが違う作品にも
何回も出てきて辟易することもあるけれど。いくらフィクションの形をまとっても、
これは彼の生の真実だろう、本音だろうとしか思えないことが、多々ある。
小説もルポルタージュも、すべての作品は自己の表出で、全集は分厚い履歴書だ。

亡くなったMさんの奥様から冊子が届いた。Mさんが大学時代に出していた
同人誌が、彼の病気を機に37年ぶりに復刊されたという。激しい痛みのなかで
書いた小説が巻頭にあった。「晴れた日は、岸壁沿いを歩くと気分がいい。
神戸の港が好きだ。」で始まり、「私はピンクの魔法瓶からはじき出された。
魔法の国よ、永遠なれ!」で終わる。痛みなど感じさせない現代のおとぎ話だが。

南米の小国という、魔法瓶の中のような珍妙な世界は、癌という名状しがたい
世界を彼独特のユーモアで反転したのではないかと、うがった読み方をした。
最初の1行に、すべてが凝縮されている。最後の「永遠なれ!」の後に、
「さぁ、大好きな神戸に帰るのだ。」という声が聞こえる。篆刻は、「抜苦与楽」。
宗教の役目と聞いたことがあるが、Mさんとは宗教の話をした覚えがない。

苦しみは、尽きて。(篆刻:苦尽甘来)

苦尽甘来

玄侑宗久さんの『アミターバ 無量光明』を読み直した。玄侑さんの奥さんの
お母さんの死を核にして、宗教学のカール・ベッカー氏と物理工学の古澤明氏の
研究成果に示唆されて、形になった小説だと記している。玄侑さんは、仏教の
地獄観には懐疑的ながらも、極楽浄土の世界を信じている、いや信じたいようだ。
さらには、死の直後にある体重の減少が魂の重さではないかと考えているらしい。

その魂の重さは、膨大なエネルギーになって、魂に現世の時空とまったく
異なる自由を与えるのではないかと。「極楽浄土ってのは、なにか私らには
計り知れない存在の意思や思いが実現している場所らしいんですよ」 
「自分の望んだとおりの美しい形が現われるらしいですよ。音楽を聴きたいと
望めば聞こえるし、いい香りがかぎたいと思えばかげるっていうんです」 

おととい、私の広告のキャリアの半分、足かけ20年間お付き合いいただいた
Mさんが、癌との戦いに敗れて亡くなった。篆刻は、「苦尽甘来」。苦しみは
ついに尽きて、甘美で自由で、光彩に満ち溢れた極楽浄土に往かれたと、
私は信じたい。せっかく大阪の会社にまで届けてくださったクコの苗を、
枯らせてしまったことが悔やまれる。Mさんのご冥福をお祈りします。合掌

苦厄の、一切を。(篆刻:度一切苦厄)

度一切苦厄

ここ数日、ラッパ水仙が満開になっている。それは、30年以上も昔なのだが。
私たちは横浜の京浜東北線山手駅にすぐの借家に住んでいた。その大家さんが
お花の先生だったからか、さほど広くない庭にもかなりの種類の草木が
植えられていた。冬の終わり、花壇のすみに植えた覚えもない水仙が芽を出した。
3月31日にはつぼみがひとつ大きくふくらんで、咲かんばかりになった。

その夜、大阪の友人からの電話。奥さんが子どもを連れて自殺した、という。
正月には、家族で来てくれて、同じ年頃の私の子どもと遊んでいったのに。
水仙は、彼女の残した命かとも思えた。翌日、水仙を切り、つぼみを薄紙で包んで、
大阪に向かい、お棺に入れた。彼は東京に転勤になり、数年後には再婚した。
子宝に恵まれ、出世もしたのだが。いまは、ガンと戦う日々を送っている。

いま、私の知る何人かがガンになっている。しかし、私にはなすすべがない。
何を言っても救いにならないのではと、言葉もない。せめてもと、昔彫った
『篆刻・般若心経』の55顆を楽篆堂のホームページに載せた。篆刻は、
そのひとつ「度一切苦厄」。観世音菩薩は、皆空と悟られて「一切の苦厄を度し
たもう(救う道を示された)」。「無有恐怖(恐怖もない)」の一節もあるのだが。

和解の、時。(篆刻:和)

201373173953.gif
別に私はそれを研究している訳ではないし、何かでの聞きかじりなのだが。
死生学のアルフォンス・デーケンという人やホスピスケアの先駆者である
柏木哲夫さんによれば、ある死が契機で生み出される大事なもののひとつに
「和解」があるという。たとえば、対立やすれ違いなどで不仲だった家族が
謙虚になったり許しあったりして、改めて家族としての絆を取り戻すというのだ。

現に私はごく身近で、そんな話を聞いた。そのお嫁さんと高齢で病気がちの
お義母さんは、仲が良くなかったのだが。お義母さんが息子の車で病院へ行く時、
嫁に言った。「いろいろ世話になった。ありがとう」。お義母さんが亡くなったのは、
その数日後。何年間もともに暮らしながら、心が通いあったのがたった数日間、
といえばそれまでだが。時間の長短を超えた、和解の深さと思うべきだろう。

篆刻は「和」で、軍門の標識である「禾(か)」と、和議に際しての神への誓いを
入れる器「サイ」。家から死への旅に出る門口で、恐れと悲しさに占領された
その心の奥深くから湧きあがった「ありがとう」のひと言は、神や仏をさておいて、
人間の心の底にある真や善を信じさせてくれるに充分なものなのだが。
しかし、それが死という局面を迎えたから生まれたというのは、やはり悲しい。

縦か、横か。(篆刻:タテかヨコ)

201331314177.gif


「さんざんCMのお世話になったくせに」とカミサンには言われるが、
もう、どうにもこうにもテレビのCMが耐えられない。人に何かを伝えようとして、
何かを言いかけて、しかも話が佳境に入ったところで、突然、その話と関係のない
セールスをし始める、なんていうことが、人の世で許されるのだろうか。
日本が変になった一因は、家庭の茶の間で50年以上続いた破廉恥さ、だよね。

という枕で、本題は今朝から再開されたNHKの朝ドラ『ちりとてちん』の話。
前回の東京制作の『どんど晴れ』が、大阪制作のこれに変わって、ほっとした。
どうも、横浜生まれのくせに、関東的感覚が肌に合わなくなっているようだ。
それに、主人公を演ずる貫地谷しほりが、昔、私の会社でデザインをしてくれた
女の子によく似ていて、毎朝、カミサンとほっこりした気持ちになれるのだ。

篆刻は、その子が岐阜の実家に帰る時にプレゼントした「タテかヨコ」。
本名は、楯佳代子なのだが、校長先生のお父さんも、この名前が「縦か横」に
なるのを後で気が付いたというから、まさに『ちりとてちん』の世界。
ポヨヨ?ンとしたイラストを描いていたが、今年の年賀状は、まだ来ていない。
おーい、楯佳代子は、いま縦か横か。ひょっとしたら、斜めなのかな。

8年前の、音楽。(篆刻:音楽)

音楽

ちょうど8年前の今日は、日曜日だった。私は、剣道の道場でいつにもなく
気持ちのよい練習をしていた。その時、カミサンが何度も携帯に電話したのだが、
それは防具袋の中で、呼び出し音は聞こえなかった。それではと、館長の自宅に
電話して、やっと話せたのだが。「遊が、鈴鹿のバイクレースで事故を起こした。
すぐ鈴鹿に向かいたい。急いで帰って来て」と、早口でまくしたてる。

着替えて、車を飛ばしたが、45分はかかった。家には、大和郡山にいる
次男夫婦も待っていて、その車で鈴鹿の病院に向かった。病院のロビーでは、
バイク仲間が壁際で泣き崩れていた。医者に会うと、あれこれ説明があったが、
結論は「午前11時ちょうどに、心肺装置をはずした」のだった。重症だろうが、
死ぬなどとは、なぜかまったく思っていなかったので、ただ面食らった。

それからやっと遊に会えたが、顔には傷もなく、苦しそうでもなかったので、
少しほっとした。ロビーに出ると刑事に呼ばれた。大学ノートを手に、深刻な顔。
「決まりなので、誰かに部品を抜かれたとか、狙撃されたとかを調べましたが、
事故に間違いありませんでした」と言ったところで、刑事の携帯が鳴った。
"ルパン ザ サード!!!" 何とも元気ハツラツ、能天気な着メロなのだった。

自らを、慎む。(篆刻:秋霜自慎)

秋霜自慎

この地区の駐在さんは、真面目だ。昨今は飲酒運転が厳しいので、奈良で
酒を飲む時は、バスに乗って出る人も多い。家がバス停から遠ければ、
車で県道まで出る。飲んだ帰り、タクシーで自分の車のところまで戻って、
さあ乗ろうとすると、そこに駐在さんが待ち構えていたりするのだという。
あまりに杓子定規という声に、駐在さんの答えは「この歳で、性格は直らない。」

私のせっかち(関西で、いらち)も、もう直らないだろうなあ。実は前回の「無常」は、
1回削除している。投稿直後にMにメールで、ブログに書いたことを伝えたが、
翌日になっても返事がない。メールのほぼ全文の無断借用への、無言の抗議か。
自分だって、そうされたら気持ちのいいものではないし、と考えて削除した。
その後に、Mからのメール。「ブログを早速見て、うれしかった」のだが。

「すぐ外出しなければならなかったので、そのままにした。ゆっくり読み直そうと
見たら、消えていた。復活してくれ。」という訳で、改めての投稿となったもの。
篆刻は「秋霜自慎」。佐藤一斎の『言志四録』で「春風接人」に続く言葉。
私は、春風のように自らを甘やかせ、秋の霜のように人に接しているが。
ブログに書く、と知らせてからでも遅くはなかった、と反省だけは猿でもする。

ページ上部へ