2015年12月

不常識『篆刻講座』 10:甲骨文を知らなかった篆刻家たち。

2015121911449.jpg 「写真:亀甲(部分)」
今回は篆書体の話ですが、中国の篆刻家にも関わることなので興味のない方はスルーしてください。
さて、写真は亀の腹甲に刻まれた文字で、3200年ほど前、古代中国・殷の王が天の啓示を占った記録。牛の肩甲骨もあるので甲骨(亀甲獣骨)文と呼ばれます。劉鶚(りゅうがく)が1899年に発見し、1903年には資料集を出版したけれど、科学的に発掘されたのは1928年からのこと。それに参加した董作賓(とうさくひん)によって初めて甲骨学が大成されたけれど、彼は甲骨文の原形はさらに1500年前に遡るだろうと言っています。

ここから篆刻の話です。戦国時代に始まった印章や始皇帝が定めた官印などはパスして、北宋の米芾(べいふつ)を開祖とする文人が自ら刻んだ篆刻のこと。明の時代に彫りやすい石の印材が知られて、一気に広まった篆刻は、18世紀になって丁敬を祖とする浙(西冷印)派が興り、優れた篆刻家を輩出します。さらに清時代には鄧石如が革新を行って、呉譲之、徐三庚、趙之謙などが育ち、清末期には呉昌碩、黄士陵、斉白石など次々と優れた篆刻家が現れた、となるのですが。

ここで名をあげた篆刻家のなかで、趙之謙までは甲骨文が発見される前に亡くなっているから、その存在すら知らなかったのです。私が好きな黄士陵は金文を巧みにしたけれど、1908年没だから甲骨文発見を聞き、資料は見たかもしれない。呉昌碩は1927年没だから本格的発掘の成果はもちろん、その解読研究も知らないのです。

いま篆刻をされる方々が誰を尊敬し、誰の作風に習おうとご自由なのですが、甲骨文という文字が生まれたときの生き生きした姿とそれにまつわる物語の存在すら知らなかった篆刻家やその作品にどう向き合うべきなのか。彼らに非はないし、尊敬もするけれど、土の奥深く埋もれていた原初の文字を知らないまま、体系化、様式化されてからの秦や漢の篆書体とそれを刻んだ作品を、私は手放しで素晴らしいとは言えません。いかがなものでしょうか。

田中遊のホームページ。(篆刻:ASOBU)

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田中遊をネットで検索すると演劇の同姓同名の方がほとんどで、やっと出てくるのは
「ニュースで楽しむ掲示板・街の灯」の99年12月5日23:57の記事だけだ。「5日
午前10時5分ごろ、三重県鈴鹿市の鈴鹿サーキットで、アマチュアのオートバイレース
「鈴鹿サンデーロードレース」の競技中、奈良市の会社員田中遊さん(27)のオートバイ
が転倒、コース左の壁に衝突した。(後略)」 楽しむというのには違和感があるけれど。

遊の死後に知ったのが親としては情けないが、「ハードコアレーサー 田中遊」という
ホームページをつくり、公開していた。当時は、まだ電通でもPCを全員が持っていな
かったのではないか。誰でも簡単にホームページをつくれる時代ではなかったから、
専門の手引書でプログラムしながらだろう。全ページが黒バックで、写真がたくさんの
凝ったもの。まさにレースやバイク仲間との青春グラフィティで、いかに遊がレースを
謳歌していたかを思い知らされた。十三回忌ではバイク仲間に集まってもらったのだが、
その頃プロバイダーを変えたし、みんなの心の中に残ればいいとネット上からは消えて
しまったが。現在のネット社会をみるにつけ、丸16年も前の先駆的な行動はスゴイと
思う。カミサンに話したら「初めて遊をちゃんと誉めたね」と言われたが。ホームページは
遊びと割切り、自分の会社のアピールにと考えなかったのが、いかにもあの遊らしい。

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