ホーム>篆刻ブログ 篆からの、贈りもの。

篆刻ブログ 篆からの、贈りもの。

金沢で、出逢って。(篆刻:出逢)

2015317111810.jpg
4月3日からの三游会用に篆刻、大小40点ほどを彫りはじめて約1ケ月。昨日、
額装するための裏打ちに出して、ひとまず一段落したから、久しぶりのこのブログ。

45年前、新米コピーライターの私は、三菱銀行広報課分室でチラシなどをつくって
いたが、“DCカード”の広報誌で地方都市の紀行という企画が出た。五木寛之の
『朱鷺の墓』を読んですぐだったので金沢行きを志願した。東京から新幹線の米原
経由で6時間以上かかったから、一泊しても正味の取材時間は丸1日も無かった。
おまけにカード誌の取材だけれどカードなどある訳がない。型通り九谷焼の窯元を
訪ね、兼六園に行き、じぶ煮とゴリという川魚を食べるくらいで精一杯。夜8時には
大通りに人影もなくなるから、まあ何と田舎かと驚いた。帰りの金沢発は午後3時頃、
時間つぶしに入った大樋焼の窯元の店で、いまのカミサンと出逢ったのだが。結婚
までは遠距離交際。会った回数は数えられるほどで、電話代も高かったから文通が
メイン。結婚後はコピーライターの文章にだまされたと事あるごとに言われる始末。

この3月14日に北陸新幹線が開業した。東京・金沢間が2時間28分になって、
東京・大阪間と変わらない。こんなに近かったら何度も会えるから、正体は丸見え、
とても結婚など出来なかったろうと、開業のニュースを見ながら冷や汗が流れた。

世尊院から、大乗院へ。(篆刻:足下楽土)

2015716182256.jpg
このところずっと4月3~5日の「三游会」の作品デザインにかかりきりで、このブログが
お留守になってしまった。2/3ほど出来たので、ひと息ついて、会場の話を。野の花と
遊ぶ「花の会」と楽篆堂の共同展は、ちょうど20年前、平成6年4月に国際奈良学
セミナーハウスの旧世尊院を会場として、春と秋、3年に2回のペースで行ってきたが。

そのセミナーハウスが3月31日で閉館になる。周辺の知事・副知事公舎、吉城園など
一帯を再開発するためだが、奈良の一等地なので現状ではモッタイナイというばかりで、
それ以上の方向性はなく、業者からの提案待ちというお寒い話らしい。こちらも世尊院に
代わる会場を探さざるをえなくなった。結局決めたのは奈良ホテル南の名勝・大乗院。
近鉄奈良駅からの距離は倍ほどになるが、1万3千平米の庭の向こうには奈良ホテルの
屋根が見える。我々が使うのはその和風の文化館で大きな和室が二つで、茶室もある。

大乗院は平安時代に創建された興福寺の門跡寺院だが、我々が住む狭川は室町時代、
この大乗院の荘園領地だったことがあるから、これも有り難いご縁とよろこんで、新しい
会場を野の花と篆刻で十二分に活かしきってみたい。篆刻は「足下楽土」。その立つ
足もとこそが極楽なのだから。自然に恵まれたこの狭川こそ我々の極楽、大乗院も極楽と
思いを定めて、さあ、残りのデザインにとりかかろうか。あと、10点以上は頑張りたいな。

 

不常識『篆刻講座』 8:本来、法など無い。

201512017244.jpg「本来無法(40×40ミリ)」
正月気分も抜けたから、「いわゆる篆刻」への憎まれ口を再開しよう。この篆刻「本来無法」は、アートとしての書を目指した井上有一の遺偈「貧を守って揮毫する 六十七の霜 端的を知らんと欲す 本来、無法なり」から借りた。

無法を語るには、まず法の言い分を聞いてから。「いわゆる篆刻の作法」には、時代の違う書体は混ぜてはいけない」とある。書体とは、最古の書体で亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻まれた甲骨文、青銅器に鋳込まれた金文、そして秦の始皇帝が統一した篆書体。さて「本来無法」を篆刻しようとすると、「本」は甲骨文、金文になく、「来」は甲骨文、金文にある。こんな場合は、「来」に合わせて「木」と根元を意味する「肥点」を加えて「本」を作れという。ここでもう「書体を混ぜるな」という作法が破たんしてしまうのが情けない。

「無」は甲骨にはなく、金文、篆書では巫女が飾りのついた袖を振って舞う姿だが、後の中国の篆刻家が常用する漢字で彫った「無」とした。「法」は、甲骨文になく、金文では神前での審判に使う羊の象形「タイ」と水と去だが、篆書体には常用漢字の原形がある。こうして私の「本来無法」は出来ているのだが、「いわゆる篆刻」では言語道断の掟破りになるらしい。

いわゆる篆刻が書体を混ぜるなというのは、何度も言うが「もっともらしい贋作を作ろうとしているから」なのだ。新たに発見されたゴッホの絵に、その時代に無かった絵の具が使われていれば贋作となるのと同じ論法。

緑青のでた銅印の風韻を金科玉条とするならそれで結構だけれど、ここは21世紀の日本なのだ。漢字が中国・殷の時代に現れたのは3400年以上も前。日本に渡り、片仮名、平仮名が生まれ、アルファベットもあるこの日本で篆刻を志すなら、膨大に蓄積された多様な文字という宝の山を持ち駒として自由自在に駆使しながら、自分の前の原野に攻めていくべきではないか。もともと法などはない。もし法があるとすれば、自分だけの法を探し、創る。厳しいけれど、それしかないのですよ。

 

「仕事。」と幼児性。(篆刻:幼)

201516113714.jpg
仕事ではなく『仕事。』。川村元気という『電車男』を映画化したプロデューサーの
対談集(集英社)のタイトルで、人生を楽しくするために働くことを「仕事。」と呼ぶ。
まだ30代半ばの彼が、世界を面白くしてきた巨匠12人に聞く。自分と同じ歳の頃、
何を想い考え、どう働いたか。何に苦しみ、何を楽しんでここまでやってきたのか。

山田洋次は「批判する頭のよさより惚れ込む感性」、沢木耕太郎は「素人であり続け
ソロで生きられる力を」、杉本博司は「やるべきことは自分の原体験の中にあるから
自分に飽きないこと」、倉本聰は「世間から抜きん出るにはどこかで無理をしないと
いけない」、秋元康は「人間は間違うものだから、戻る力を磨く」、宮崎駿は「何でも
自分の肉眼で見る」、糸井重里は「仕事は人間の一部分だから、どう生きるかを
面白く」、篠山紀信は「世間をどうにかしようなんて、おこがましい。受容の精神が
大事」、谷川俊太郎は「人類全体の無意識にアクセスできる仕事がいい」、鈴木敏夫
は「当事者でありながら最高の野次馬に身を置く」、横尾忠則は「自分が見えている
道なんて不確かなもの。崩壊の先に新しい道を見つけることが多い」、坂本龍一は
「勉強は過去の真似をしないためにやる」と各人各様のしたたかさを披露している。

この12人に共通する何かがあるのに言葉に出来なかったが、昨夜のNHKの「プロ
フェッショナル」でエボラウィルス研究者の高田礼人を見て「幼児性」だと分かった。
人がいい意味での子どもっぽさを失うと、「仕事。」はただの仕事になってしまうのだ。

 

餅花を飾る。(写真:夢風ひろば)

2014122914659.JPG
以前、愛知県の足助(あすけ・狭川に近い笠置の戦いで後醍醐天皇を守った
弓の名手は足助重範)に行ったとき、餅花をつけた枝が土産物で売られていた。
紅白の餅花は正月飾りのひとつだが、昔は飢饉に備えての非常食でもあった。

「東大寺門前・夢風ひろば」の篆刻は楽篆堂作だが、そのステージの正月飾りを
ここ数年「花の会」がさせていただいている。メインはもちろん紅白の餅花。町の
店頭で見る餅花はほとんどが発泡スチロールだが、それでは値打ちがないから、
餅をついて持ち込み、レンジでチンしながら熱々の餅を総がかりで枝につける。
外人はもちろん日本人でも本物の餅花なんて珍しいから見物する方も多い。
枝が垂れるほどたわわに餅をつけた大きな枝を脚立に乗って青竹に差せば2階
の窓に届くほどの高さで、なかなかの壮観。この前で記念写真を撮る方もいる。

餅花の枝はヤナギ、カマツカなど年によって違うが山で伐らせてもらえる。真竹は
Oさんの竹林で、南天は業者にも出荷しているYさんの畑でと、地域の皆さんにも
支えられての正月飾り。始めはかなり大がかりな竹の造作で、友人の家具屋の
手も借りたけれど、最近は竹を使うポイントも心得て、メリハリがきいてきた。街中に
住んでいたなら、こんな大がかりなことは出来ないと、人に自然に感謝している。

 

半世紀前の、「若者たち」。(篆刻:若)

2014122311435.jpg
森山直太朗がフジテレビ開局55周年記念ドラマ「若者たち2014」の主題歌として
「若者たち」をカバーしている。ドラマは見る気がしなかったが、本家のザ・ブロード・
フォーとまた違ういい味だ。50年前、まだ若かった自分を思い出してキュンとする。

大学に入ってすぐ、近所の日大芸術学部のお兄さんが自分の後がまにバイトを
紹介してくれた。フジテレビの視覚効果は、雨、風、雪、炭火、蛇口の水や街の背景
を豆球で灯す電飾などが守備範囲で、もちろんその手伝い。「三匹の侍」の滝の
セットでスタジオの消火栓を開閉した話は以前書いたが、「若者たち」の千葉ロケは
消防車で雨を降らせる大がかりなものだったので助っ人に呼ばれた。結局何をする
でもなく、銚子港で船が埋まるほどのイワシに目を丸くしたりと物見遊山のようだった。
メインの夜の雨のシーンは大原。雨に濡れながら演じたのは加藤剛と佐藤オリエ。
ホースで雨を降らせるのは地元の消防団で、ここでもすることがないが、終われば
大きな旅館に俳優もスタッフも一緒に泊まる。“あァ、あの佐藤オリエと同じ屋根の
下で眠るのだ”と若者の胸がときめく。知的なのに冷たくない。美人なのに庶民的。
若者である私にとって、佐藤オリエは3歳上の憧れのお姉さんだったのだから。

あれからざっと50年。何と半世紀。私の行く道は果てしなく遠い。だのに、なぜ・・・

音楽企画センターで、コマソンを。(篆刻:音楽)

201412416325.jpg
日経新聞の11月28日の訃報欄に「越部信義氏(こしべ・のぶよし=作曲家)21日、
脳梗塞のため死去、81歳。童謡「おもちゃのチャチャチャ」やテレビアニメ「パーマン」
「マッハGoGoGo」の主題歌を作曲し、「サザエさん」の音楽なども手掛けた。」とある。

他の作品を検索してみると「紅三四郎」、「みなしごハッチ」は「音楽:越部信義・
音楽企画センター」になっている。この音楽企画センターで、私は大学1、2年の頃
アルバイトをした。地方ラジオ局が盛んにコマーシャルソング・コンテストをしていた
時代で、その作詞をした。デュボア・ヘアブラシなら♪デュ、デュ、デュボア~♪とか
書いて、入賞すれば3千円だかの小遣いが貰えた。越部さんが音楽企画センターに
欠かせない存在らしいことは知っていたが、バイトごときに接点などない。「マッハ
GoGoGo」を作詞した伊藤アキラさんは宇宙人のような顔で優しくしてくれたが、そこに
居続ければコマソン作家になりかねない。若くて広告界への夢があったから辞めた。

越部さんは三木鶏郎の冗談工房に所属したし、野坂昭如作詞の「おもちゃのチャチャ
チャ」は日本レコード大賞童謡賞を受賞した。いまにして思えば、人生にタラレバは
ないけれど、音楽企画センターで作詞家になっていたら、テレビアニメの主題歌ひとつ
くらいは書いただろうし・・・いや、私は広告から篆刻へ、この道に悔いはありません。

 

不常識『篆刻講座』 7:天皇御璽は、端正です。

20141126125736.jpg「天皇御璽(90×90ミリ)」
この21日、伊吹衆院議長が解散詔書の「衆議院を解散する。御名・・・」と読んだところで「万歳!」が叫ばれて、続く「御璽(ぎょじ)」が言えなかった。この詔書に押されていただろう御璽は、明治7年に秦蔵六が鋳造、印文は小曾根乾堂、彫刻は安部井櫟堂による金印(18金)で、今日まで改刻されず使われているのだそうだ。

これを榊莫山先生は「正面きった篆書体の文字を斉正典雅に掘りあげて、表情は端正である。だがややシンプルにすぎて風韻に欠ける」と評しています。確かに風韻には欠けている。でも御璽は印章・篆刻の最高位として風韻など、下世話に言えば面白みなどハナから求めていないのだから仕方がない。

篆刻の風韻といえば、御璽の対極にあるのが日展・篆刻部門の入選作の数々。なぜかほとんどが「漢銅印の風韻にならう」とかで、銅が錆びてボロボロ、ザラザラになった具合を再現(?)しようとしてか、印刀でガリガリ、ゴリゴリ。大きくても23ミリ角程度の漢銅印を日展用の大きな石で真似れば、銅印のザラザラが縦挽きノコギリの刃のようになったりする。「風韻にならう」ことも度を過ぎれば、油絵にコーヒーを塗って古色を装う贋作づくりに限りなく近いと思うのだが。もっと大事なことは、銅印のほとんどが官印だから錆びる前、作られた時は典雅で端正だったことを忘れてはいけない。

再び莫山先生の話。美術評論家の池田弘という人が篆刻を好んで作ったが、篆刻家の園田湖城が初期の作に「池田君の刻は、刀が切れすぎる」と言った。その後「30年に近い歳月は、池田の刀の冴えをゆるやかに沈潜へと向かわせた。刀は方寸の世界を自在に駆けめぐっているが、切れ味は緩急ほどよい響きをみせる」と結んでいる。

私は、ここに篆刻をする者の正しい道程を見るのです。まず、文字の骨格のもっとも美しい姿を、端正すぎることや面白さに欠けることを恐れずに、真剣に追及する。刀の切れすぎを恐れて、曖昧に走ってはいけない。それを続ければ、時と時が生み出すその人の味が、いつか得も言われぬ篆刻の味になる、と信じている。私の場合、日暮れて道遠し、ではあるけれど。

 

子どもたちの、太鼓踊り。(篆刻:鼓)

2014111812207.jpg
奈良市立興東中学の校区は、この狭川と東里、大柳生の3地区。大柳生の夜支布
(やしふ)山口神社には1年毎に神の分霊を当家(とうや)が祀る廻り明神という
宮座制度があり、夏祭りは当家の植栽を取り払った庭で太鼓踊りと相撲が奉納された。
30年前、私も相撲に飛び入りで出て、小結になり立派な御幣をいただいたことがある。

奈良県で唯一の太鼓踊りは室町幕府三代将軍・足利義満が武門の門出を祈ったと
いう伝承で700年続く県指定無形文化財だが、少子高齢化、踊り手の青年の減少で
2012年を最後に休止されてしまった。ところが、この太鼓踊りが意外な形で復活した。

11月1日、校区地域教育協議会主催の「興東里山まつり」で、幼稚園児3人を含む
小・中学生たち全員が、会場の野外活動センターのホールで見事に演じきったのだ。
2週間毎日練習を重ねたという。太鼓を叩きながらひた向きに踊る姿に、皆が心から
感動した。踊り終えた中学の生徒会長は女の子だが、皆の前で「私たちが引き継いで
いきたい」ときっぱりと宣言した。私たちもそうしてくれることを願う。その心意気や
あっ晴れだが、本当にできるのだろうか。青年男子に限るという垣根は無くなったし、
大柳生在住にこだわらず、他の東里、狭川の子どもも参加した。それでも太鼓踊りを
受け継ぐということは、この地区に住み続けるということ。彼らに、できるのだろうか。

 

富士山の合力、近藤さん。(篆刻:富士山と合力)

2014119122514.jpg
待ちかねた『ぼくの仕事場は富士山です。』(近藤光一著、講談社)が届いたので、
早速読みはじめたが、ちょっとコワゴワでもあった。というのは、その近藤さんから
「富士山登山ガイドをしている、社名の合力(ごうりき)と富士山の篆刻が欲しい」との
問合せがあった。合力のHPを見るうちに、富士山と合力という文字が融合した
デザインが出来たのでメールして、ぜひ彫らせてくださいとお願いした。近藤さんは
「彫ってください。本を送りましょうか」と言われたが、篆刻が届いたらサインに押して
送ってくださいとお答えした。本を読めば違うイメージに変わるかもしれないのに。

合力は最後の強力と呼ばれた小俣彦太郎氏の言葉「自分を鍛えようと登る人に《力を
添え合わせ》目的を果たさせる男たち」にちなんだという。人と人、人と自然、訪問者と
地域の関係が力を貸して助け合い生まれる新しい社会を築きたい、という近藤さんの
願いが込められている。少人数、しかも通年のガイドという、エコツーリズムのまったく
新しい扉を開いた近藤さんの熱い想いと、紀元前から現代まで続く信仰の歴史や近藤
さんの一人ひとりに寄り添うガイドで富士山に登る人たちの数々のドラマを読むうちに、
この篆刻のデザインには富士山に手を合わせる、祈りのカタチがあることに気づいた。

近藤さん、先走ってデザインしましたが本の読後も篆刻は変わりません。正解でした。

 

ページ上部へ