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篆刻ブログ 篆からの、贈りもの。

遊にも、有り難う。(篆刻:羊角紋瓦当「有難」)

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第15回三游会《和気(わき)》がお蔭様で無事終了した。名勝・大乗院という新しい
会場で、晴れたのは2日目の午後だけ、雨が降ったりしたのに、いつもと変わらぬ
大勢の方々に遠方からもお越しいただきました。誠に有り難く、お礼申し上げます。

篆刻は彫って押して額装・軸装したのを並べるだけ、強いていえば大乗院の階段が
シンドかったけれど。花の会は皆で活けるメインの桜の開花が早すぎて染井吉野に
なった。活け込み前日は雨で、私が桜に登って伐ることになり、土間に下がっていた
レインウエアを着たのだがポケットにあった紙に驚いた。タイヤの納品書で1999年
12月5日、レース名は鈴鹿サンデーロードレース最終戦、遊のサインもある。という
ことは、あの日着ていたのだろうか。15年も気がつかず三游会の準備で見つけるとは。

遊のレース友だちだった濱口喜博さんが三游会に来てくれたので、この話をしたら彼も
不思議がったが、その後彼にも不思議なことが起きた。駐車場に停めていた彼の車の
エンジンがかかっていたというのだ。当然ドアロックしてありキーレスなのでエンジンを
切らないとロックできない車なのに。遊が挨拶代りにイタズラをしたと思ったそうだ。
会場の桜は途中で散ると思ったが3日間頑張ってくれた。三游会の案内ハガキは
最初から15年前までは遊がデザインしてくれていた。改めて遊にも有り難うと言おう。

 

人生は、後半。(篆刻:看後半截)

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横浜市立東台小学校で私の5、6年の担任は女性のE先生だった。下の学年から
団塊の世代で、子を私立に受験させようとする親も増えていた。その傾向を先生は
好ましく思っていなかったようで、反動でか公立しか考えていない私を何かと前に
押した。学芸会で劇を演出させ、卒業式で総代にしたり、子ども心にも強引に感じた。

大阪茶屋町で篆刻の初個展をした時は娘さんのいる堺に身を寄せていたので来て
くださったし、この家も訪ねてくれた。その後、住み慣れた鶴見・東寺尾の高齢者用
住宅で悠々自適に絵や文章を楽しまれた。東京の熊谷守一部美術館では会場が
3階で登る自信がないからと来られなかったのは仕方のないこと。平成22年の米寿
には絵と文章を子ども一同が作品集にしてくれた。それを読んではじめて、「女は物を
言うべからず、表に出るべからず」という主義のご主人にあらがいながら教師をして
いたことを知った。43年近く連れ添いながら、ガンで亡くなる直前に初めて「ごくろう
さん」と言われたのだが、あとがきには「いちばんありがとうを言いたい人は夫」とある。

理由は3人の子を授けてくれた人だから。今年の年賀状は細かな切り絵で、まだ
お元気とうれしかったが、21日に亡くなった。後半生を人並み以上に謳歌した93年
だった。篆刻は「後半截を看よ」、後半生によってE先生の一生は幸せだった。合掌

日展を見てきた。(篆刻:続歩不倒)

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奈良の陶芸家・喜多浩介さんが、改組新第1回日展の工芸美術で特選を受賞
された。券を送っていただいたが三游会の準備もあって最終日にやっと見せて
いただくことができた。《渇きの惑星》という作品は会場入り口にあって、すぐに
分かった。陶芸については無知な私でも、並々ならぬ技術を駆使しての大作と
感じ入った。いままで挑戦を続けてきた手法をさらに突き詰めたと思える集大成。
陶芸の地平をなおもその手で押し広げようという熱と意を感じて、心地よかった。

さて、篆刻は。以前からあった問題が明るみに出て改組のきっかけにもなった
のだが。せっかく来たからと見てみたけれど。林のように並ぶ書の大きな額に
押しつぶされるのを避けるようにガラスケースの中にある。審査員や審査方法を
変えたのだろうが、作品そのものは何がどう変わったか皆目分からない旧態
依然のものばかり。中には、ほとんどの人が一生見ることもないような漢字を
どこかから引っぱり出してきたものだから、PCで打ったらしい題名も書体が揃わ
ない。この作者はミイラ化した文字のゾンビをつくって、何をどうしたいのだろう。

篆刻「続歩不倒」は今回の三游会の作品のひとつで、アイリスオーヤマの社長の
言葉を借りた。私は篆刻の新しい何かを探しながら独行独歩を続けていきたい。

金沢で、出逢って。(篆刻:出逢)

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4月3日からの三游会用に篆刻、大小40点ほどを彫りはじめて約1ケ月。昨日、
額装するための裏打ちに出して、ひとまず一段落したから、久しぶりのこのブログ。

45年前、新米コピーライターの私は、三菱銀行広報課分室でチラシなどをつくって
いたが、“DCカード”の広報誌で地方都市の紀行という企画が出た。五木寛之の
『朱鷺の墓』を読んですぐだったので金沢行きを志願した。東京から新幹線の米原
経由で6時間以上かかったから、一泊しても正味の取材時間は丸1日も無かった。
おまけにカード誌の取材だけれどカードなどある訳がない。型通り九谷焼の窯元を
訪ね、兼六園に行き、じぶ煮とゴリという川魚を食べるくらいで精一杯。夜8時には
大通りに人影もなくなるから、まあ何と田舎かと驚いた。帰りの金沢発は午後3時頃、
時間つぶしに入った大樋焼の窯元の店で、いまのカミサンと出逢ったのだが。結婚
までは遠距離交際。会った回数は数えられるほどで、電話代も高かったから文通が
メイン。結婚後はコピーライターの文章にだまされたと事あるごとに言われる始末。

この3月14日に北陸新幹線が開業した。東京・金沢間が2時間28分になって、
東京・大阪間と変わらない。こんなに近かったら何度も会えるから、正体は丸見え、
とても結婚など出来なかったろうと、開業のニュースを見ながら冷や汗が流れた。

世尊院から、大乗院へ。(篆刻:足下楽土)

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このところずっと4月3~5日の「三游会」の作品デザインにかかりきりで、このブログが
お留守になってしまった。2/3ほど出来たので、ひと息ついて、会場の話を。野の花と
遊ぶ「花の会」と楽篆堂の共同展は、ちょうど20年前、平成6年4月に国際奈良学
セミナーハウスの旧世尊院を会場として、春と秋、3年に2回のペースで行ってきたが。

そのセミナーハウスが3月31日で閉館になる。周辺の知事・副知事公舎、吉城園など
一帯を再開発するためだが、奈良の一等地なので現状ではモッタイナイというばかりで、
それ以上の方向性はなく、業者からの提案待ちというお寒い話らしい。こちらも世尊院に
代わる会場を探さざるをえなくなった。結局決めたのは奈良ホテル南の名勝・大乗院。
近鉄奈良駅からの距離は倍ほどになるが、1万3千平米の庭の向こうには奈良ホテルの
屋根が見える。我々が使うのはその和風の文化館で大きな和室が二つで、茶室もある。

大乗院は平安時代に創建された興福寺の門跡寺院だが、我々が住む狭川は室町時代、
この大乗院の荘園領地だったことがあるから、これも有り難いご縁とよろこんで、新しい
会場を野の花と篆刻で十二分に活かしきってみたい。篆刻は「足下楽土」。その立つ
足もとこそが極楽なのだから。自然に恵まれたこの狭川こそ我々の極楽、大乗院も極楽と
思いを定めて、さあ、残りのデザインにとりかかろうか。あと、10点以上は頑張りたいな。

 

不常識『篆刻講座』 8:本来、法など無い。

201512017244.jpg「本来無法(40×40ミリ)」
正月気分も抜けたから、「いわゆる篆刻」への憎まれ口を再開しよう。この篆刻「本来無法」は、アートとしての書を目指した井上有一の遺偈「貧を守って揮毫する 六十七の霜 端的を知らんと欲す 本来、無法なり」から借りた。

無法を語るには、まず法の言い分を聞いてから。「いわゆる篆刻の作法」には、時代の違う書体は混ぜてはいけない」とある。書体とは、最古の書体で亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻まれた甲骨文、青銅器に鋳込まれた金文、そして秦の始皇帝が統一した篆書体。さて「本来無法」を篆刻しようとすると、「本」は甲骨文、金文になく、「来」は甲骨文、金文にある。こんな場合は、「来」に合わせて「木」と根元を意味する「肥点」を加えて「本」を作れという。ここでもう「書体を混ぜるな」という作法が破たんしてしまうのが情けない。

「無」は甲骨にはなく、金文、篆書では巫女が飾りのついた袖を振って舞う姿だが、後の中国の篆刻家が常用する漢字で彫った「無」とした。「法」は、甲骨文になく、金文では神前での審判に使う羊の象形「タイ」と水と去だが、篆書体には常用漢字の原形がある。こうして私の「本来無法」は出来ているのだが、「いわゆる篆刻」では言語道断の掟破りになるらしい。

いわゆる篆刻が書体を混ぜるなというのは、何度も言うが「もっともらしい贋作を作ろうとしているから」なのだ。新たに発見されたゴッホの絵に、その時代に無かった絵の具が使われていれば贋作となるのと同じ論法。

緑青のでた銅印の風韻を金科玉条とするならそれで結構だけれど、ここは21世紀の日本なのだ。漢字が中国・殷の時代に現れたのは3400年以上も前。日本に渡り、片仮名、平仮名が生まれ、アルファベットもあるこの日本で篆刻を志すなら、膨大に蓄積された多様な文字という宝の山を持ち駒として自由自在に駆使しながら、自分の前の原野に攻めていくべきではないか。もともと法などはない。もし法があるとすれば、自分だけの法を探し、創る。厳しいけれど、それしかないのですよ。

 

「仕事。」と幼児性。(篆刻:幼)

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仕事ではなく『仕事。』。川村元気という『電車男』を映画化したプロデューサーの
対談集(集英社)のタイトルで、人生を楽しくするために働くことを「仕事。」と呼ぶ。
まだ30代半ばの彼が、世界を面白くしてきた巨匠12人に聞く。自分と同じ歳の頃、
何を想い考え、どう働いたか。何に苦しみ、何を楽しんでここまでやってきたのか。

山田洋次は「批判する頭のよさより惚れ込む感性」、沢木耕太郎は「素人であり続け
ソロで生きられる力を」、杉本博司は「やるべきことは自分の原体験の中にあるから
自分に飽きないこと」、倉本聰は「世間から抜きん出るにはどこかで無理をしないと
いけない」、秋元康は「人間は間違うものだから、戻る力を磨く」、宮崎駿は「何でも
自分の肉眼で見る」、糸井重里は「仕事は人間の一部分だから、どう生きるかを
面白く」、篠山紀信は「世間をどうにかしようなんて、おこがましい。受容の精神が
大事」、谷川俊太郎は「人類全体の無意識にアクセスできる仕事がいい」、鈴木敏夫
は「当事者でありながら最高の野次馬に身を置く」、横尾忠則は「自分が見えている
道なんて不確かなもの。崩壊の先に新しい道を見つけることが多い」、坂本龍一は
「勉強は過去の真似をしないためにやる」と各人各様のしたたかさを披露している。

この12人に共通する何かがあるのに言葉に出来なかったが、昨夜のNHKの「プロ
フェッショナル」でエボラウィルス研究者の高田礼人を見て「幼児性」だと分かった。
人がいい意味での子どもっぽさを失うと、「仕事。」はただの仕事になってしまうのだ。

 

餅花を飾る。(写真:夢風ひろば)

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以前、愛知県の足助(あすけ・狭川に近い笠置の戦いで後醍醐天皇を守った
弓の名手は足助重範)に行ったとき、餅花をつけた枝が土産物で売られていた。
紅白の餅花は正月飾りのひとつだが、昔は飢饉に備えての非常食でもあった。

「東大寺門前・夢風ひろば」の篆刻は楽篆堂作だが、そのステージの正月飾りを
ここ数年「花の会」がさせていただいている。メインはもちろん紅白の餅花。町の
店頭で見る餅花はほとんどが発泡スチロールだが、それでは値打ちがないから、
餅をついて持ち込み、レンジでチンしながら熱々の餅を総がかりで枝につける。
外人はもちろん日本人でも本物の餅花なんて珍しいから見物する方も多い。
枝が垂れるほどたわわに餅をつけた大きな枝を脚立に乗って青竹に差せば2階
の窓に届くほどの高さで、なかなかの壮観。この前で記念写真を撮る方もいる。

餅花の枝はヤナギ、カマツカなど年によって違うが山で伐らせてもらえる。真竹は
Oさんの竹林で、南天は業者にも出荷しているYさんの畑でと、地域の皆さんにも
支えられての正月飾り。始めはかなり大がかりな竹の造作で、友人の家具屋の
手も借りたけれど、最近は竹を使うポイントも心得て、メリハリがきいてきた。街中に
住んでいたなら、こんな大がかりなことは出来ないと、人に自然に感謝している。

 

半世紀前の、「若者たち」。(篆刻:若)

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森山直太朗がフジテレビ開局55周年記念ドラマ「若者たち2014」の主題歌として
「若者たち」をカバーしている。ドラマは見る気がしなかったが、本家のザ・ブロード・
フォーとまた違ういい味だ。50年前、まだ若かった自分を思い出してキュンとする。

大学に入ってすぐ、近所の日大芸術学部のお兄さんが自分の後がまにバイトを
紹介してくれた。フジテレビの視覚効果は、雨、風、雪、炭火、蛇口の水や街の背景
を豆球で灯す電飾などが守備範囲で、もちろんその手伝い。「三匹の侍」の滝の
セットでスタジオの消火栓を開閉した話は以前書いたが、「若者たち」の千葉ロケは
消防車で雨を降らせる大がかりなものだったので助っ人に呼ばれた。結局何をする
でもなく、銚子港で船が埋まるほどのイワシに目を丸くしたりと物見遊山のようだった。
メインの夜の雨のシーンは大原。雨に濡れながら演じたのは加藤剛と佐藤オリエ。
ホースで雨を降らせるのは地元の消防団で、ここでもすることがないが、終われば
大きな旅館に俳優もスタッフも一緒に泊まる。“あァ、あの佐藤オリエと同じ屋根の
下で眠るのだ”と若者の胸がときめく。知的なのに冷たくない。美人なのに庶民的。
若者である私にとって、佐藤オリエは3歳上の憧れのお姉さんだったのだから。

あれからざっと50年。何と半世紀。私の行く道は果てしなく遠い。だのに、なぜ・・・

音楽企画センターで、コマソンを。(篆刻:音楽)

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日経新聞の11月28日の訃報欄に「越部信義氏(こしべ・のぶよし=作曲家)21日、
脳梗塞のため死去、81歳。童謡「おもちゃのチャチャチャ」やテレビアニメ「パーマン」
「マッハGoGoGo」の主題歌を作曲し、「サザエさん」の音楽なども手掛けた。」とある。

他の作品を検索してみると「紅三四郎」、「みなしごハッチ」は「音楽:越部信義・
音楽企画センター」になっている。この音楽企画センターで、私は大学1、2年の頃
アルバイトをした。地方ラジオ局が盛んにコマーシャルソング・コンテストをしていた
時代で、その作詞をした。デュボア・ヘアブラシなら♪デュ、デュ、デュボア~♪とか
書いて、入賞すれば3千円だかの小遣いが貰えた。越部さんが音楽企画センターに
欠かせない存在らしいことは知っていたが、バイトごときに接点などない。「マッハ
GoGoGo」を作詞した伊藤アキラさんは宇宙人のような顔で優しくしてくれたが、そこに
居続ければコマソン作家になりかねない。若くて広告界への夢があったから辞めた。

越部さんは三木鶏郎の冗談工房に所属したし、野坂昭如作詞の「おもちゃのチャチャ
チャ」は日本レコード大賞童謡賞を受賞した。いまにして思えば、人生にタラレバは
ないけれど、音楽企画センターで作詞家になっていたら、テレビアニメの主題歌ひとつ
くらいは書いただろうし・・・いや、私は広告から篆刻へ、この道に悔いはありません。

 

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