
話を、王さん撮影の朝に巻き戻す。やはり球場は曇天で、寒い。 何回かのCM撮影日を悪天候で棒に振っている。(バットが振れない・・・。失礼) 東京に状況を電話するたびに、社長はソファで胃を押さえて寝ている、と聞く。 費用からも日程からも、この日の撮影強行はギリギリの判断だった。 そこへ電通のSさんが現れた。朝一番の飛行機で、来てくれたのだろう。 ペプシコーラが、王さんを起用して、ホームラン世界新記録達成まで続く大きな仕事。 いろんな事情があっただろうが、彼はどこの馬の骨か分からない私に託してくれた。 企画はバックネットが隠れる大きな白幕、黒幕をバックに、1本足のハイスピード撮影。 「ふーん、ハイスピードねぇ」と言外に不満は見えたが、クライアントに通してくれた。 最初の撮影が流れて、彼は東京に帰り、ほぼ半月ぶりの再会だ。 「妥協しないでね、田中君」 Sさんはそのひと言だけを発して、去った。トレンチコートの後ろ姿を、いまも思い出せる。 早稲田の文学部美学専攻。会津八一の孫弟子で、奈良の古仏をこよなく愛す男。 篆刻は昔の拙い習作だが、「安重沈深」。男は、すべからく「安、重、沈、深」であれ。 王さんとSさんは、私の中では同じサムライに分類されている。