
彼は、東京の時計屋の三男だった。大学の成績は4年間全優。広告研究会で
幹事長になった。幹事長になる前の2年の時、夏のキャンプストアのポスターを
デザインした。私のコピー「砂に残した足跡は、波が消してしまうけど」を受けて、
自分の足の裏に絵の具を塗って、紙の上を歩いた。早慶戦のための小冊子の
編集長もした。大阪のM電器に入社したが、希望の宣伝事業部ではなかった。
奈良の女性と出会って結婚して、男の子が産まれたが。彼女は社宅で、幼い子を
道連れに自ら世を去った。上司の配慮で東京に転勤になった。数年後に再婚して、
一男一女を授かり、胃潰瘍を克服して、事業部長格になった。私が紹介した店を
接待や部下の慰労で使っていた。数年前のある夜、私がたまたまそこにいたら、
彼も1人で来た。かなり酔っていて「きょう、早期退職の辞表を出した」と言った。
PR会社の契約社員になって、省エネ・環境関連のPR誌を企画した。創刊号で、
自ら施主として納入事例に登場し、写真にも納まった。その笑顔は、ついに
クリエイティブに関われたうれしさだと思った。その約1年後。彼はすい臓ガンで
逝った。遺影は、あのPR誌にあった、あの笑顔だった。篆刻は、「他力」。
五木寛之の『他力』に、その意は「生病老死、わが計(はか)らいにあらず」とある。