7:天皇御璽は、端正です。

20141126125736.jpg「天皇御璽(90×90ミリ)」
この21日、伊吹衆院議長が解散詔書の「衆議院を解散する。御名・・・」と読んだところで「万歳!」が叫ばれて、続く「御璽(ぎょじ)」が言えなかった。この詔書に押されていただろう御璽は、明治7年に秦蔵六が鋳造、印文は小曾根乾堂、彫刻は安部井櫟堂による金印(18金)で、今日まで改刻されず使われているのだそうだ。

これを榊莫山先生は「正面きった篆書体の文字を斉正典雅に掘りあげて、表情は端正である。だがややシンプルにすぎて風韻に欠ける」と評しています。確かに風韻には欠けている。でも御璽は印章・篆刻の最高位として風韻など、下世話に言えば面白みなどハナから求めていないのだから仕方がない。

篆刻の風韻といえば、御璽の対極にあるのが日展・篆刻部門の入選作の数々。なぜかほとんどが「漢銅印の風韻にならう」とかで、銅が錆びてボロボロ、ザラザラになった具合を再現(?)しようとしてか、印刀でガリガリ、ゴリゴリ。大きくても23ミリ角程度の漢銅印を日展用の大きな石で真似れば、銅印のザラザラが縦挽きノコギリの刃のようになったりする。「風韻にならう」ことも度を過ぎれば、油絵にコーヒーを塗って古色を装う贋作づくりに限りなく近いと思うのだが。もっと大事なことは、銅印のほとんどが官印だから錆びる前、作られた時は典雅で端正だったことを忘れてはいけない。

再び莫山先生の話。美術評論家の池田弘という人が篆刻を好んで作ったが、篆刻家の園田湖城が初期の作に「池田君の刻は、刀が切れすぎる」と言った。その後「30年に近い歳月は、池田の刀の冴えをゆるやかに沈潜へと向かわせた。刀は方寸の世界を自在に駆けめぐっているが、切れ味は緩急ほどよい響きをみせる」と結んでいる。

私は、ここに篆刻をする者の正しい道程を見るのです。まず、文字の骨格のもっとも美しい姿を、端正すぎることや面白さに欠けることを恐れずに、真剣に追及する。刀の切れすぎを恐れて、曖昧に走ってはいけない。それを続ければ、時と時が生み出すその人の味が、いつか得も言われぬ篆刻の味になる、と信じている。私の場合、日暮れて道遠し、ではあるけれど。

 

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