慶ぶべきか、裁判員。(篆刻:慶)

慶 先日、自治会の関係で、奈良の地方裁判所に裁判員制度の研修に行った。 制度説明の短いビデオの後、裁判の傍聴。覚せい剤売買と拳銃所持で、 求刑8年。唐突にヘビーな場面で困惑したが、その後、現職裁判官への 質疑応答になった。私は「裁判員制度で冤罪は減るのでしょうか」と聞いた。 裁判官は「それについては、何とも言えません」との答え。・・・やっぱりそうか。 私の真意は、「裁判員の参加は第一審だけ。それでは、問題の多い冤罪の 解消に役立たないのでは」だったのだが。今朝の日経新聞の1面に、 「最高裁が裁判官だけの控訴審では、よほど不合理でない限り一審を尊重すべき との報告」の記事があって、少し安心した。裁判で思い出すのは、武田泰淳の 小説『ひかりごけ』。難破船の船長が、仲間の人肉を食べたという裁判劇。 食人した者の首の後ろには光の輪が現れるが、それをした者には見えないという 仕掛け。裁判長、検事、弁護人、傍聴者にも見えない。誰もが、食人に等しい 罪を犯しているという主張だった。篆刻は、かなり造形のきつい「慶」だが。 古代の神に問う裁判で勝訴した時、神の恩寵を受けたとして、羊の胸に心字を 入れて喜びを表すこと。現代でも、人を裁けるのは神のみでは、と私は思う。
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