楽篆堂の篆刻事始め。(篆刻:幸都萬具)

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篆刻を始めたのは、1979年だった。
楽篆堂・田中快旺は、いつ、どんなきっかけで「篆刻」を始めたのだろうか。もちろん、楽篆堂とか快旺とかを名乗るのはずっと後のことで、そのころは一介の広告コピーライター・田中安夫だったのだが。メモ程度の記録には、1979(昭和54)年に「テン刻開始」とある。
大阪の広告代理店・大広に契約社員として入社した(住まいは横浜から奈良に移転)のはその前年で、スーパーのダイエーが新聞中心だった広告をそろそろテレビCMに変えるために大広に呼ばれた。関連会社のロベルト(紳士服)、ローソン(コンビニ)などまで、毎月5、6本のCMをほぼ一人で制作していた。コンテに描いた企画を映像化してもらうCMプロダクションはもちろん大阪にもあったが、ほとんどは東京時代にマクドナルドやP&Gを一緒に制作したプロダクションに頼んだ。ということは、クライアントは大阪、住まいは奈良だが、相当の頻度で東京に出張しなければならない。多い時は伊丹と羽田の飛行機を一日に2往復したこともあるが、多少の余裕があれば新幹線で片道3時間の長旅になる。

篆刻デザインは、新幹線の暇つぶし。
その新幹線での暇つぶしに始めたのが篆刻のデザイン、下書きなのだ。ノートにあれこれ書きなぐったものからマシなのを選んで、休みの日に彫る。奈良には篆刻の石や印刀などを扱う書道具店も多かったから、地の利も幸いしたと思う。やっとデザインがまとまったので、少し大きめの石をひとつ笹川文林堂へ買いにいったら、高齢の店主に「一つですか? 佐藤(勝彦)先生なんかは、箱ごとまとめて買っていかれまっせ!」と嫌味を言われたけれど、佐藤さんは雑誌『銀花』でも活躍中のプロの画家で自由闊達な自刻印を多作されている、こちらは素人の暇つぶし、レベルも経験も違うのだから、とりあえず石は1個で十分なのだ。
篆刻といっても新幹線のなかでのデザイン遊びなので、難しい篆書体ではなく、アルファベットが多かったのだが、一応は石に彫るので、彫り方は梅田の紀伊国屋書店で手引書を探した。いまでも手元に残っているのは『わかりやすい篆刻入門』で中村淳監修 日本習字普及会、昭和52年発行。記憶では篆刻の手引きになる本はこれ1冊しかなかったように思う。
ただ、こんな遊びを誰に教えてもらったのかの記憶がまったくないので、困っている。趣味人の多いサンアドにいたコピーライターのTに聞いたように思ったのだが、彼は違うという。誰に教えてもらったのか判らないということは、周りに篆刻をする人がいなかったことでもあるし、誰か先生に教えを乞うという発想もまったくなかった。自分や家族の名前を彫ったら、こんどは周りの人に「名前の篆刻、彫らせてくれますか」と声を掛ける、という篆刻初心者の一般的な流れに乗ったまでのこと。

バーの名前・サイドバンクが篆刻「幸都萬具」に。
画像の篆刻「幸都萬具」も、大阪長堀にあったサイドバンクというコシノヒロコさんのバーのマスターSさんと仲が良かったので、彫ってみようかという酔った時の一言がきっかけ。駄洒落、語呂合わせは本業のようなものだから「幸せの都に萬(よろず)具(そな)わる」の4文字はすぐ出来た。いま見れば、少ない篆書体の資料を漁りながら、何とか4センチ角のなかに収めようと四苦八苦したのだろうが、画数の多い4文字を右から並べて密にして、下に伸びたがる線を素直に伸ばすことで、意図せずに上密下疎という定石にはまったのは、我ながら天晴れだった。そのサイドバンクのマスターSさんは独立したし、サイドバンクで飲んでいた時の話から私は大広に辞表を出すことにもなったので、この篆刻をコシノさんに見てもらうこともなかったのだけれど。

榊莫山先生に篆刻「幸都萬具」を見ていただく。
大広を辞めてから、職業訓練校に行ったり、船場の丸光という現金問屋のCI顧問をした後、デザインAという松下電器産業の広告を作るデザイン会社に初のコピーライターとして入った。1990(平成2)年、松下電器の電球・蛍光灯の事業部が10年後の2000年を見据えて「あかり文化2000」という新聞広告シリーズを企画し、デザインAが制作した。各界の著名人を取材撮影しての新聞1ページシリーズで、フランス料理では三國清三さん、建築家は高松伸さん、写真家は秋山庄太郎さんなどで、書の世界からは榊莫山先生にお願いした。
その取材撮影が終わった時に、見ていただいたのが、この篆刻「幸都萬具」だが、先生は「おもろいなァ、おもろいなァ」と誉めてくださり、中国西冷印社で求められた印譜にサインまでしてくださった。
莫山先生は書ばかりでなく篆刻もされて『印章教室』(創元社刊)という本も出されているから、そこまで言っていただいたら、「あなたの篆刻はなかなかよろしい、これからも頑張りなさい」と激励されたと思って問題はないだろうと勝手に解釈して、趣味ではあるが篆刻を本気で真剣に続けようという気になったのだ。

亀井武彦さんにも、篆刻「幸都萬具」を誉められて。
そのデザインAは松下電器産業のほぼ専属プロダクションだが、電通、博報堂、大広など広告代理店の松下担当者が他のクライアントになると、松下以外にここの広告もやってくれないかという話が多くなって、ヒルズという別会社を作り、私はヒルズの社長をしながらデザインAのコピーも兼任するようになった。しかし過労とストレスの蓄積でウツ病になり、1991(平成3)年ヒルズを退社した。
発病から10ヶ月かかったが良い先生と巡り合えて、ウツ病は快癒したのだが、その暮れの年賀状はこれまでのように印刷する勢いがない。官製ハガキいっぱいに「御慶」の2文字を墨書して、この篆刻「幸都萬具」を押して年賀状にした。それを見て、「田中君、この篆刻はいいね、誰の篆刻?」と電話をくれたのが亀井武彦さんだった。
亀井さんはサンアドでサントリーのCMなど企画演出し、その頃はフリーのアーチストになっていたが、それを機に雅号の「玄亀阿仁磨」などの篆刻を彫らせていただいたし、そのいくつかはいまだに亀井さんの作品の落款印として使われている。

誰に教えてもらったかも思い出せず、何となく始めた篆刻ではあるけれど、それをいまだに続けていられるのは、榊莫山、亀井武彦というおふたりの力が私を強く後押ししてくれたからに他ならないのです。

 

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