サイン本の篆刻(落款印)。(篆刻:前進思考&麻の葉紋)

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サイン本のための篆刻(落款印)の依頼。
著書に押す落款印の依頼は、著者ご本人からやご友人からの出版祝いとか、いくつか制作させていただいているけれど、今回は出版社のご担当からで、かなり気合の入ったものだった。株式会社KADOKAWAのTさんから、この8月末にメールをいただいた。「先行予約を受ける直筆サイン本の1冊、1冊に落款を押印して、2,500名以上の皆さんにお届けしたい。」 
タイトルは『勝利の流れをつかむ思考法 F1の世界でいかに崖っぷちから頂点を極めたか』で、著者は元ホンダF1マネージングディレクターの山本雅史さん。山本さんは昨年までHondaの社員であり、2019年からHondaF1専任としてマネージングディレクターに就任。2021年、Red Bull Racing Hondaのドライバーズチャンピオン獲得に貢献された。「その知見や経験のナレッジを初著書として、ビジネスのノウハウも交えながら単行本に仕立てているところ。Wikipediaでは生誕が東京になっているが奈良の出身なので、奈良の楽篆堂にその落款印を頼みたい」とのありがたいお話だった。
実は私の兄も義弟も本田技研の社員だったし、息子も本田四輪の社員だったから、根っからのHondaファン。悦んでお引き受けしたいとTさんに伝えて、制作はスタートした。

篆書体でなく、現代漢字を提案。
サインに添えて押す篆刻の文字は「前進思考」の4文字。山本さんがいつもご自身を“スーパーポジティブ”と言っているので、Tさんが「前進思考」と漢字に置き換え、山本さんは講演会やセミナーのタイトルとして活用し始めているとのこと。
F1は世界最高峰のモータースポーツだし、この本は世界で日本人が戦うためのマインドセットを指南するビジネス書。そのテーマを集約した4文字だから、古典的な篆書体は似合わないし、篆書体だと4文字とも読めない可能性が高い。読めない、読みにくいことは避けなければならないと思い、現代漢字で明朝体とゴシック体の中間、右肩上がりで男臭い書体を提案したのだけれど。

あえて篆書体で、麻の葉紋の中に。
帰ってきた答えは、私の老婆心を無用のものにした。篆刻制作のポイントは、次の3つに絞られた。
①「前進思考」は篆書体にしたい。山本さんとも再度確認したうえで、楽篆堂のホームページの新作紹介をプリントスクリーンで添付してくれて、この雰囲気がいいので、あえて「篆書体で読みにくくても良い」ことになった。
②篆刻の形は、丸。本文の中に「理想のチームとは、美しい“球体”だ」という1章がある。「ゴルフボールの表面にはディンプルと呼ばれるくぼみが無数についていて、(中略)飛距離がでる、スピン力が増すなど、そこにはさまざまな意味があるが、結果的にそれが美しい一つの球体というバランスのとれたかたちになり、カップインという目的に向かってコースを進んでいく。仕事も同じだとぼくは思う。」「チームの仲間たちの実力が発揮できる環境を整えたら、次はそのたくさんの才能を組み立て、それをいかに綺麗な球体にしていくか、を考える。」とある。
2021年の奇跡的なチャンピオン獲得は、彼のチームが理想的な美しい球体に近かったから実現できたことであり、そのコンセプト「前進思考」の印面は球体をイメージした「丸印」にする必然があるのだ。
③「麻の葉紋」のモチーフを加えたい。F1日本GP「2021 FIA F1世界選手権シリーズ第17戦 Honda日本グランプリレース」は10月8日~10日に鈴鹿サーキット(三重県)で開催予定であったが、新型コロナウイルスの影響で開催が中止された。そのトロフィーはその大会のタイトルスポンサーが制作するもので、ホンダは「オールHondaで」の想いを込めてトロフィーを作ったという。その幻の日本GPトロフィーのデザインは魔除け、成長祈願にご利益がある和柄「麻の葉紋」の球体だった。Tさんから送られたそのトロフィーの写真には「レッドブルレーシングに込めた願い…。2022年、この想いを落款印で届けたい。」と添えられていた。

篆刻のデザイン、開始。
そこまで決まれば、具体的なデザインにかかれる。丸い印面いっぱいに麻の葉紋を敷いて、さらにその真ん中に篆書体の「前進思考」を2文字2列で入れる。文字も麻の葉紋も白(白文)とするのだが、麻の葉紋と文字の兼ね合いが大きなポイントになる。
丸の中に収める麻の葉紋の最適なパターンは、実寸で考えれば一つに絞れるが、文字との最適なバランスは実際にデザインしてみないと判断がつかない。「麻の葉紋が分かりやすいように文字を少し小さくした案」と「文字をそれより大きくして見やすく、ただし麻の葉紋が少し犠牲になる案」を作って比べた結果、前者に決めて、Tさんからも同意をえた。印面の大きさも、出来れば直径3センチに収めたかったが、それでは線があまりに細くなって、たとえ彫れたとしても、印泥やインクが溝に入って、線がつぶれる恐れが大きい。そこで印面は直径35ミリとさせてもらった。
35ミリ角の石は何種類かあるのだが、これだけの細かな線は柔らかで彫りやすい石ではエッジが崩れやすい。そこで青田(せいでん)石という見た目はあまり美しくはないけれど、硬めで彫りにくいけれど確かな強度のある石にした。

印面へ転写して、彫りの工程へ。
印面をいつもより丹念に磨いて、トナー式のコピー機で、かなり大きな原稿を実寸に縮小してコピー。それを印面に押し付けて、マニキュアの除光液で滲まないように転写する。これで彫る準備は完了、いよいよ彫りにかかる!! 普通の彫りでは2倍のヘッドルーペをかけてやるが、今回は3倍のヘッドルーペにする。4文字と無数の麻の葉紋の線を一通り彫って、試し押しをする。文字の太さはもちろんだが、直線の太さが揃っていない。日を改めて文字と直線の太さを揃える。3日目はすべての線の交差する鋭角をかすかに甘く削る。12本の線が集まる交点も鋭角を削ると大きな丸のようになる。それが円周にそって6か所出来る。2日半がかりで、原稿に近いものがやっと完成したのは、9月の8日だった。

篆刻を発送、押印の準備へ。
出来上がった篆刻を、雁皮紙に押して、印影の文字の意味を記した為書きとともに指示のように書籍編集長宛てに発送したのは、12日。届いた篆刻の実物を見て「想像以上、とても立派ですね」との返事をいただいた。念のためにと、出来上がった印影をフォトショップで整備した画像データを送ったのだが、このデザインを山本さんがお世話になった関係者にお渡しする品に添えたいというご希望があり、「もちろん悦んで」とお返事した。
さあ、この篆刻本来の目的は、サイン本の落款印。ここから先が大変なのだ。Tさんの希望はサインに添える落款印は「朱色の印泥で」だったけれど、本の押す場所は表紙の裏、しかも黒い洋紙。普通の白い半紙でも、「篆刻は押すのがいちばん難しい」とされるのだから、あえて印泥で押すなら、例えば銀座の鳩居堂とかにこの篆刻と実際の本の紙(本紙)を持って行って相談されたらとアドバイスしたのだが、私としては「印泥は難しいので、StazOn(ステイズオン)などのスタンプパッドを」と強くお勧めした。

サイン入れ、そして押印。
「来週26日から2000冊以上のサイン入れ、押印にかかります」とのメールに山本さん自らが黒い本紙にシルバーペンでサインし、落款印をあれこれ試し押しする写真が添えられていた。赤い印泥ではっきり色が出たけれど乾かないので、白のステイズオンに決めた、とのこと。
サイン入れ開始に合わせて、27日、HPの新作で「前進思考&麻の葉紋」を紹介させていただく。Tさんからは、「押印作業、おっしゃる通り大変です。約30(回)冊くらいで、クリーナーと歯ブラシでメンテしながら。HPの文章は、これで十分です。後日完成した本が届いたら、直筆サインと篆刻を写真に撮って載せていただければ」とのメールをいただいた。

YouTubeで、サインと押印を実演。
10月5日、Tさんからのメールで「いよいよ明日、発売です。一昨日、10月3日、モータースポーツ.comさんのライブ配信で田中さんに創作していただいた篆刻、山本さんによる押印の実演を行いました。」とうれしいニュースが届いた。【生配信】元ホンダF1山本雅史と帰ってきたF1日本GPを語ろう。というタイトル。7日から鈴鹿で開催のF1日本GPの期待を盛り上げつつ、その前日に発売の初著書のプロモーションを兼ねた秀逸な企画だ。1時間40分以上のロングインタビューの1時間10分くらいで、本当にサインと落款押印をやってくれたのには驚いた。「奈良の落款屋さんに頼んだけど、まあ、押すのが大変。筋肉痛になりました。」と笑いながらも、上手にしっかり押していただいていた。視聴者にはサイン、落款の色紙、サイン本のプレゼントというオマケもあった。

サイン本、到着。感動しつつ、読了。
アマゾンの経営書部門ではランキング1位のベストセラー。サイン本の先行予約は楽天ブックスで、こちらも限定2000部は完売。もちろん私も、篆刻のデザインも決まらないうちに、自分の創った落款印が押されるべき本を楽天で予約している。5日に発送のお知らせメールが来て、翌6日の新発売の日に届いたので、この手際の良さにも驚いた。
開封して、表紙を開けば、黒いページに「勝利の流れをつかむ思考法 F1の世界でいかに崖っぷちから頂点を極めたか 山本雅史」がシルバーで印刷され、シルバーの直筆サインと白の落款印のバランスが絶妙だ! 
第1章は「なぜマクラーレン・ホンダは苦戦したのか」、第2章は「“円満離婚”からトロロッソとの共闘へ」と続く。突然のF1撤退決定によってラストシーズンとなった2021年。我々にはあと1年チャンスが残っていると、マシンの実力ではかなわないメルセデスと激闘を続け、ついに最終戦でレッドブル・ホンダのフェルスタッペン選手が奇跡的に30年ぶりのドライバーズチャンピオンを獲得した。いくつもの奇跡が重なって現れた壮大な奇跡だけれど、それこそ人間の思いがベースになったコミュニケーション力、それに基づいたチーム戦略、そしてテクノロジーさえも凌駕する人間力があったからだと実証してくれた。一気に読み終えたが、何回か感動で目頭がうるんだ。山本さんはホンダのF1撤退とともにホンダを退社して、株式会社「MASAコンサルティング・コミュニケーションズ」を設立して、レッドブルの子会社とコンサルティング契約するなど引き続きF1の世界に深くコミットしている。この本でも、後半は未来の日本人チャンプ誕生への戦略を展開している。私は、山本さんが今後も、この新しい環境のなかできっと確かな何かを確立されると信じている。なぜなら、いくら直筆サイン本といえ、物理的に篆刻を押す作業など誰かに頼んでもいいのに、それをホテルに泊まりこんで、筋肉痛になりながら、2500部見事に押し終わったのだから。こんな人に押してもらった篆刻は、本当に果報者というほかないのです。

ありがとうございました。
「前進思考」という卓抜なコンセプトから、直筆サイン本に落款をという発想が生まれ、数多い篆刻作家のなかからご指名をいただき、それに携われた幸運、心から感謝します。ありがとうございました。

※今回の篆刻を文中では「落款印」と呼んでいますが、「落款」とは作者の責任を明らかにするため押すので、署名やサインとそれに添える「姓名印」や「雅号(別号)印」のセットを言います。この「前進思考&麻の葉紋」は山本雅史さん個人を特定するものではなく、山本さん以外の誰が使っても問題のない性質のものですから、分類上は「遊印」と呼ぶべきものですが、読んでいただけば判るように、「山本雅史=前進思考&麻の葉紋」なのですから、あえて「落款」のための印「落款印」と書かせていただきました。

 

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