トビアス・ハツラー(Tobias Hutzler)さんはアメリカや日本など世界で仕事をしているドイツ人のビジュアルアーチストの方です。今回、「飛(飛明日の飛)」を楽篆堂に注文いただきました。その後作品が届いたと代理の方からメールが届きました。「飛の形を解題し、天井がない空に上がっていく様子が表現されており、とても喜んでおりました。シンプルで洗練され、日本文化は好きでもいかにも日本ではないほうが使いやすいとのことで、ピッタリです。本人のウェブサイトもご覧頂き、研究頂いたと伺いました。誠にありがとうございます!」とお言葉をいただいたのですが、
続いて「ご質問がございます。篆刻印を印泥で押してみたのですが、イメージより少し太く線が出てしまいました。我々が印泥で押した画像(右)を添付します。左のように、田中さんが押してくださったような細い線が理想ですが、同じような線を実現するには、どんな印泥またはスタンプ台がお薦めですか?」とのご質問がありました。
一見して、トビアスさんの印泥は気温が高いためか、油が浮いてベタツキがあって、線が太くなっていますので、応急としては冷蔵庫などで少し冷やして押してみるようお勧めしました。また和紙より印画紙など洋紙が多いのであれば、スタンプパッドの方がベターでは、とお答えしました。
このように、篆刻と印泥は切っても切れない関係があり、しかも、篆刻の作者の制作意図を込めた本来の線を忠実に再現するには、印泥がとても重要になりますので、ここで改めて「印泥」についておさらいしておこうと思います。
1:印泥とは
「印泥」とは水銀と硫黄を焼しめてつくった銀朱に、モグサの繊維とヒマシ油を混ぜたものですが、もう少し詳しくいうと、天然素材「辰砂=硫化第二水銀(バーミリオン)」(無毒)を主原料に、ヨモギの葉の繊維を細かく精製した「もぐさ」と「ひまし油の一種」を調合して、丹念に練り合わせたものです。古代から印は作られ使われてきましたが、印肉が歴史に登場するのは意外と遅く、中国の宗時代の頃で、それまでは泥が使われていたらしく、そのために印泥と呼ばれたようです。古代中国では羊の血が代用されたこともあります。日本では江戸時代、武士階級にだけ朱肉が許され、それ以外の階級の印影は黒でした。
2:印泥のメーカーと種類
印泥は篆刻の国、中国で発明されたものなので、現在でも主な印泥は中国から各種が輸入されています。日本製もありますが、私が使った印象では、モグサが多く、日本画に厚く押すために工夫したのではと思いました。値段も高価ですので、篆刻には使っていません。中国の主なメーカーは潜泉印泥廠、石潜印泥廠、上海西冷印社、杭州西冷印社などがあり、色調では「光明、美麗、箭簇など」がかなりの数からお好みが選べます。また、同じメーカーであれば、いくつかを混ぜて自分だけの好みの色調をつくることも可能です。
余談ですが、中国の篆刻家はいわゆる赤、朱が子供っぽいと思うのでしょうか、ほとんどが茶色、褐色系統の印泥を使います。日本の篆刻家は、やはり紅っぽい美麗、朱っぽい光明などが好みで、これは国旗の日の丸が強く影響しているのではと思います。
3:印泥の保管法
印泥は空気や油が通りにくい磁器、真鍮など印泥用の容器(印合)に入れて、水平を保って置き、蓋はキッチリと閉めて、油分の蒸発・減少から保護します。使うたびにしっかりと練り混ぜます。長期間使わない場合も月に1度程度は混ぜると、固まったり、ベタベタになったりを防ぐことができます。油分のために、暑いとベタベタになり、寒いと固まるので、最適な温度(25度前後)の場所で保管してください。
4:印泥の異常
A:印泥が固まったとき・・・長期間使わなかったり、温度の低い場所で保管していたりすると印泥が固くなって、篆刻に上手くつかなくなることがあります。
◎表面だけが固まっている場合
表面だけが乾燥して固くなっている場合は、底からしっかり混ぜて、表面の固い部分と中の軟らかい部分を混ぜ合わせます。
◎全体が固まっている場合
1:暖房器具の近くに置き、ゆっくり温める 2:容器の底に遠くからドライヤーの温風を当てる 3:容器から印泥を出して耐熱ナイロン袋に入れぬるま湯で湯煎し、柔らかくなったら袋の上から軽くもんで混ぜ、容器に戻す など印泥の様子を見ながら、少しずつ温めます。
私の場合は、真夏以外は、蓋をあけた印泥の上で小さな白熱電球のスタンドを点けて、少し温めながら使っています。
また、「印泥用の油」が売っていますので、少し混ぜて柔らかくする方法もあります。
B:印泥がベタベタになったとき
夏の暑い時などは、ゆるくなったり、油が分離してベタベタになったりしやすくなります。
◎手ぬぐいやさらしなどで、印泥の表面の表面をやさしく叩き、油分を拭きとる。印泥のサイズに切った布を印泥にのせて一晩置くのも効果的です。
◎油分が暑さでベタベタになるので、冷蔵庫で冷やすのも効果的です。固さや艶などの様子を見ながら、少しずつ冷やします。
5:印泥は書画の場合に。
私が出来上がった篆刻に同封する「ご注意」には、書や絵画などの作品には印泥をお使いいただくようお勧めしていますが、それ以外であれば、使いにくい(扱いにくい)印泥を使う必要はなく、市販のスタンプパッドで構わないと書いています。最近は紙だけでなく皮などにも使えて、色数も豊富なカラーのスタンプ台がありますので、赤や朱にこだわらず、篆刻の用途を広げながら楽しんでいただけます。
6:印泥のニジミについて
和紙などに印泥で篆刻を押しておくと、印影の周りに黄色く油がにじんでくることがあります。篆刻作品を裏打ちして出品するとか、プレゼントする場合には、このニジミに対応しておく必要があります。篆刻の印面をサンドペーパーで削った時の石の粉を取っておいて、使います。使い方は、印を押した紙の裏側のに、この石粉を薄く乗せて、一晩置くと石粉が印影の余計な油分を吸い上げますから、筆などで粉を取り除きます。見た目では分かりませんが、油のニジミは退治できます。
7:印泥は生き物
古来、多くの文人、墨客が印泥に魅せられ、また悩まされていまに至っています。同一の印泥が常に同じ状態ではない、常に変化しているのを充分理解しながら、その時どきで、その篆刻のベストの印影を生み出すのも、篆刻の奥深い楽しみ方のひとつと言えるでしょう。
※参考資料
『篆刻入門』 淡交社ムック
『篆刻入門』 季刊「墨」スペシャル 芸術新聞社
「みなせ筆本舗」 ホームページ
「書遊」ホームページ 印泥にまつわる豆知識