篆刻と筆。(篆刻:快)

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今回のテーマは「篆刻と筆(毛筆)」についてです。「篆刻」という主に篆書体を石などに刻む創作活動と、硯で磨(す)った墨を主に紙に書く道具「筆」との関係、相性などを考えてみます。

1:篆刻に筆と墨は必要か。
いきなり結論めいた話になりますが、私・楽篆堂は篆刻の道具として筆を使うのか。答えはノーで、筆はおろか、墨も硯も使いません。もちろん朱墨も使いません。篆刻を見様見真似で始めた時は、参考書の教えのままに黒と朱、二面の硯とちょっと高価な朱墨を買って、筆と黒と朱の墨で印稿を書き、また印面にも筆で書き入れたりしたのですが、すぐにその無意味さ、面倒臭さに気づいて、筆や墨とはきっぱり縁を切りました。
いまでは、1センチの方眼紙(.TOOのSECTION CROQUIS B5)に鉛筆(三菱UNIのB)でいくつか下書きし、決めた案の鉛筆の上から水性サインペン(三菱PIN 0.1ミリ・黒)で線の太さを決めながら塗りつぶして、デザイン(印稿)を仕上げます。冒頭の篆刻「快」は一見、筆で書いたかのような線の太さ、強弱、変化がありますが、これも筆はまったく使わず、鉛筆とサインペンで原稿を書き、印面に転写したものです。
「篆刻という作業で、筆と墨は不要」と断言しますが、以下にその理由を述べます。

2:筆の歴史
まず、筆記道具としての筆について。筆の歴史的な記述としては、秦(紀元前221年~紀元前206年)の蒙恬将軍が筆を初めて作ったと言われます。『史記』には「始皇、恬と太子扶蘇とをして長城を築かしむ。恬、中山の兎毛を取りて筆を造り、案を判せしむ。」とあります。また、漢の張華の『博物誌』には「秦の蒙恬、筆を造る。狐狸の毛を以て心と為し、兎毛は副となす。」とあり、また宋の蘇易簡の『文房四譜』には「昔、蒙恬の秦筆を作るや、柘木を管と為し、鹿毛を柱と為し、羊毛を被となす。」とあって、いずれも筆は蒙恬将軍が初めて作ったものということになっていて、この段階ですでに芯(芯毛)と副(化粧毛)があり、複数の毛を混ぜていたようです。

実際にはその秦のおよそ1400年前の、殷(紀元前1600~紀元前1050頃)に書かれた甲骨文字に、既に「筆」という文字が現れていて、その時代の土器には墨で書かれた痕跡も確認されています。
それをはるかにさかのぼった新石器時代末の仰韶文化期(紀元前5000~紀元前3000頃)と推定され、中国出土の最古の遺物といわれる彩陶には絵画風の文様が鉱物の顔料で描かれ、文様の形状や質感、線の肥痩の状況から、何種類もの筆によって書かれたものと見られており、これが現在分かっている中では最古の筆の痕跡とされています。

周末戦国(楚)時代(紀元前790~紀元前222)の遺跡からは、筆が発見され、「長沙筆」と呼ばれています。毛はウサギ。今でいう小筆のような形です。当時、この筆で墨を使い、絹の布(帛書)や竹(竹簡)に書いたものが発見されていますし、この筆で描かれた人物画も出土しています。ここまでをまとめると、

BC5000~BC3000頃 新石器時代 彩陶に顔料を筆で描いた痕跡。文字の誕生間近。
BC1600~BC1050頃 殷 甲骨文字に筆という文字。墨の痕跡。
BC790年~BC222年 楚 当時の筆が出土。墨で書かれている。
BC221年~BC206年 秦 筆が発明されたという伝説

ここから、筆は土器に色を塗ることを目的として、紀元前5000年には既に存在したと考えられます。筆と墨では、墨の前に、鉱物顔料を使用していましたので、筆の方が古かったと考えられます。ちなみに、殷時代の甲骨文字は、牛や馬などの大腿骨に刀のようなもので文字を彫ったものですが、その下書きは筆で描かれていました。
殷の次の「周」になって、青銅器に文字を鋳込む「金文」の文化となりますが、金属に刻みつけるよりもだいぶ昔には、既に墨も筆も存在していたということになります。

3:篆書から楷書へ、文字の変遷と筆の変化
殷から西周にかけての甲骨文、また殷から西周にかけての金文には下書きとして筆と墨が使われたであろうし、春秋戦国時代(楚、越、斉など)の石碑、竹簡、帛書でも筆と墨が重要な筆記具であったでしょう。秦の時代に大篆をより簡略にした小篆が生まれたけれど、通常使われる書体はその小篆もより書きやすく効率的な隷書に変わっていきます。書体が書記的効率として見直されたということは、その道具としての筆も効率向上のために変化したと考えてよいでしょう。
つまり、篆書が隷書に変わり、さらに草書、行書、楷書と変化するにつれて、筆もその書体をよりよく表現するために変化を求められるのですから、筆は篆書との関係をどんどん希薄にしていったことになります。

4:篆書体のための筆の使い方:書法

甲骨、金文、青銅器の銘文などの肉筆資料では、現代の篆書の書き方以前の日常書写体ともいえるものが残っています。しかし、書体が進化(?)し、筆も変わっていくことで、古い篆書体を新しい筆で美しく合理的に書くための書法を工夫する必要がありました。中国清朝中後期の最も傑出した書家・篆刻家である完白山人鄧石如以降、研究開発されたのが、いわゆる「逆筆蔵鋒、直筆中鋒」の用筆や左右対称、縦長などで、これが篆書の字形の特徴です。
ここで、以前「篆刻の篆とは」で触れた「篆書と筆」を再掲します。
『曽紹杰(けつ)の『書道技法講座<篆書> 泰山・瑯邪台刻石』には、「古代の篆書というのも古人の日常の字であり、時代が移るとともに変わって違ってきたにすぎない。昔の最初の筆は竹に毛を束ねただけのもので、これで線を引いたから、篆書はどこも太さが均一で、転折のところも角ばっていないのである。後世の人の楷行草は太いところと細いところがあるので美しく見えるが、もし筆に芯がなければ様にならないであろう。今の人がこの芯のある筆を使って篆書を書こうとすれば、困難は古人よりはるかに多い。」とし、さらに「(篆書の)初学の者でうまく筆を使えない場合は、灯火で穂先を少し焼くと書きやすくなる」というアドバイスまでしています。

また「後世の毛筆は次第に精巧に作られるようになって、(中略)この種の先が尖った筆は楷行草を書くのには大変便利だが、篆書を書くにはむしろ不都合になる。」「秦篆のような穂先の出ない起筆を書くには逆入平出という蔵鋒による方法を用いなければならない。」と《蔵鋒法》を解説し、また「古い筆を溜めておいて、穂先の尖っていない筆に育てる」《旧筆平起法》を併記しています。古代の篆書は、筆がまだ未発達で粗末な作りだったがために生まれた文字の形、文字のスタイルであったと言ってよいでしょう。』
つまり、筆がどんどん精巧になってしまったので、プリミティブな篆書を書くには不向きであって、苦し紛れに「逆筆蔵鋒」などの書法を開発せざるを得なかった、ということなのです。

5:篆刻のデザイン(印稿)と筆
以下は季刊墨スペシャル 第8号『篆刻入門 技法とその魅力』芸術新聞社刊をベースに、「篆刻の作り方」の中で篆刻と筆の関係、相性を考えていきます。
①検字(校字)・・・字書によって文字を選び、半紙などに書き抜くことで、筆を使っていますが、ここで筆でなければならない理由はなく、洋紙に鉛筆でも問題はないと思います。
②印稿作り・・・まず、<仮印稿>として半紙に原寸大で、絵で言えばデッサン、建築では設計図を書きます。これも筆で書かれていますが、大雑把な線を便宜上筆で書いたにすぎず、蔵鋒法などは見えません。
次の<本印稿>では、ハガキやボール紙に黒い墨をまんべんなく、何回か塗るという不思議な下準備があります。ここでも筆が使われますが、筆でなくてはならないかは、大いに疑問です。
白文の場合は石の大きさを朱墨で2、3回塗りつぶしてから、文字の部分を筆(細い面相筆)と墨で書き入れます。「本印稿はあくまで完成した状態ですから印刀で彫りくずした線を念頭において書きます。仮印稿の筆による線の太い細いや、筆力や起筆・終筆の様子を、印刀の表現に置き換えて書いていきます」と解説がありますが、朱文の場合も同じく、仮印稿の通りになるよう、朱と墨で何度も推敲するので、筆は単なる細くて自由が利く筆記道具にしかすぎません。

③布字(字入れ)・・・印稿が完成したら、いよいよ石の印面に墨を塗って、朱墨で本印稿とは左右逆の「逆字」を朱で書きます。この時は手鏡などで写しながら、また朱と墨で細部を修正して完成させます。ここでも、筆は細くて自由が利く筆記用具でしかありません。
これまでに、紙に朱と墨を塗って印稿を書き、印面にも朱と墨で布字をするという手間暇のかかる作業を基本として勧めているのですが。それとは別に、「布字は本印稿を雁皮紙に墨で写し、裏返して印面に置いて、濡らして転写する方法もある」とも書かれていて、朱と墨のあの作業は何なのかと呆れてしまします。
この①~③までの篆刻における筆と墨は、紙などに篆書を書くときの筆意、筆圧、緩急などを形としてまねることはあっても、実際には線をそれらしく書いたり塗ったりするに過ぎないので、筆と墨でなくても、まったく問題はないことになります。
それが楽篆堂の場合は、筆と墨ではなく、鉛筆とサインペンであり、人によってはまったく別のものでも構わないのです。

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