文字の、災い。(篆刻:文)

文 たとえば「化」という漢字を見詰めているうちに、それがバラバラに分解して、 ただの線になる。「ああ、化という文字だった」と思い直すまでに時間が かかった経験はないですか。ゲシュタルト(総体)崩壊という心理的な現象。 中島敦の小説『文字禍』で、古代アッシリアの老博士は、これが文字の霊の 存在の証しとした。この報告に文化人の王は、怒って博士を謹慎させる。 大地震の時、自宅の書庫にいた博士は、文字たちの呪いの声とともに、 無数の粘土板の書物で圧死する。中島敦が「文」という漢字の意味を知って いたかは不明だが、「文」は呪いと無関係ではない。篆刻の「文」は、人の 胸の部分に心や×のある象形で、朱の入墨で聖化して悪霊から守るまじない。 いまでもお宮参りの子どもの額に赤い×を描くことは、この名残りだという。 「文字の無かった昔、・・・歓びも智慧もみんな直接に人間の中に入って 来た。・・・近頃人々は物憶えが悪くなった。・・・人々は、最早、書きとめて 置かなければ、何一つ憶えることが出来ない。・・・文字が普及して、 人々の頭は、最早、働かなくなったのである。」 そうだ、私の物覚えが悪く なったのは、齢のせいでも、ボケでもない。「之も文字の精の悪戯である。」
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