張莉さんの『「倭」「倭人」について』。その3 (写真:「漢委奴国王」印面)

20131125173918.jpg
張莉(ちょうり)さんの論文『「倭」「倭人」について』の続き。さらに「邪馬臺國」の臺は
「堆」に通じるので台地にある国を示し、「その地勢は東高西低」の記述からは西に海、
東に山のある地形であり、北九州の伊都に接していたとあるから、それはおのずと
「邪馬臺國」九州説となる。また卑彌呼を「卑彌娥(ヒミガ)」とした文献に触れ、「娥」は
美しい女性を意味し「鬼道につかえ、よく衆をまどわす」という神秘性を表現した漢字
で、「娥」を音の表記だとすれば、卑彌呼の読みは「ヒミカ」と類推される、としている。

最終章は「倭国」と「日本」について。『古事記』『日本書紀』では「倭」と「日本」が元々
一系であることが前提だが。「倭国」は白村江の戦いの後に壊滅的な打撃をうけて
近畿大和勢力に併呑された。「日本」は、その近畿大和勢力が最初に名乗った国名で
ある。「やまと」は奈良地方を言う言葉。古事記での「倭」が日本書紀で「日本」となり、
ともに「やまと」と発音するのは、近畿大和勢力が自らの出自を「倭」の系統に当て
はめたからである。「倭」が「大和」に置き換えられたが、「倭(ワ)」を貴字の「和」に換え、
「大倭(たいゐ)」を意図して合成された。中国人の目と中国の文献からは「邪馬臺國
の卑彌呼」と「近畿大和勢力の日本」が同系統とはならない。以上が張莉さんの論文。

邪馬台国論争を延々と続けてきた日本の学者たちは、この説にどう答えるのだろう。

ページ上部へ