3:お行儀ばかりが、良くっても。

2014731182110.jpg 「拈華微笑(50×50ミリ)」

お盆には少し早いけれど、篆刻は「拈華微笑(ねんげみしょう)」。釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で説法した時、蓮の花を聴衆に拈(つま)んで示したら摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意を悟って微笑したので、正しい法は迦葉に伝えられたという故事、いわゆる以心伝心です。

さて、これを四角い石に彫る場合、普通は右に縦で拈華、左に微笑を置いて田の字にする。または「幸都萬具」のように、右から左に縦長に四文字を並べる。どちらも文字は同じ大きさになる。お行儀はいいけれど、面白くはない。なぜなら、あえてこの四文字を選んで彫った、その人の解釈が見えないから。

楽篆堂は、考えた。拈もうが捩(ね)じろうが、とにかく釈迦は蓮を差し出した。迦葉は静かに笑ったが、悟った瞬間だから「あぁ」くらいは言ったかもしれない。要は釈迦の「花」と迦葉の「笑」であって、他は形容、説明にすぎない。そこで「華」と「笑」をほぼ対等に大きく扱う。それでも「拈華微笑」と読んでほしいから、右からの順は崩さず、拈と微はすき間に溶け込ませたのだが、いかがだろう。

「いわゆる篆刻」は雅味を尊ぶから、だいたいお行儀がいい。でも、篆刻は表現であり、コミュニケーションなのだから、漫然とした表現ではなくて、まず作者の自己表現でありたい。自己表現ならお行儀などと言ってる場合ではない、と思うのだが。いや、その時迦葉がゲラゲラ笑ったら釈迦は不愉快だっただろう、やはり「微」が肝心、という穏健な解釈だって有りうる。そんな微を強調した「拈華微笑」も見てみたい・・・怖いもの見たさだけど。

 

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