神さまが訪れる、音。(篆刻:音)

音
へーッ、これで92歳とは、と目を見張った。肌はつやつやで、シワだって少ない。 話しながら、コロコロとよく笑う。少女のようなその人は、映画「サウンド・オブ・ ミュージック」のモデルになった、トラップ・ファミリーの次女マリアさんだ。 NHKのドキュメンタリーで、彼女が語る思い出は、厳しかったことの方が多い。 ドレミの鍵盤ほどの子供を残して母が亡くなり、家庭教師マリアが新しい母になった。 父のトラップ大佐が海軍の英雄だったがゆえに、ナチを逃れてアメリカに亡命。 バスで各地を巡り、合唱団として名声を得ても、多くの富に恵まれたわけではない。 こうして靴下は自分で編んだ、といって指を自在に動かす。練習だから撮らないでね、 と言いながらアコーディオンをよどみなく弾き、澄んだ歌声にも衰えがない。 血がつながらない同じ名の母の、闊達で音楽好きの気質を受け継いだかのよう。 篆刻は、「音」。音は、神へ誓いである言の口(さい)に一を加えた文字。 祝詞に神が感応して、器が自ら鳴る音づれが「訪れ」の語源なのだそうだ。 マリアさんのように、神はつねに訪れていると自覚できる高齢者は、どれほどか。 編み物が好きだったのに、もう編み目が見えない、手だって動いてくれない、と 遠い地のリハビリ施設の車椅子でつぶやく、大正2年生まれ93歳の、母を思う。
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