諦めること、投げ出すこと。(篆刻:諦)

諦
般若心経の「羯諦(ぎゃてい)」は、玄奘三蔵があえて訳さず、原音「ガテー」を そのまま音写したという。意味は「取り除く」だが、松原泰道老師は「渡ろうよ」、 中村元博士は「往ける者よ」と訳す。渡る、往く、その先は迷いも執着も無い彼岸。 童謡の「お手てつないで野道を行く」、それこそが大乗の心なのだという。 当て字にあえて「諦」を選んだのは、仏教では真理を意味する大事な言葉だから。 苦集滅道である四諦(したい)と八正道、という難しい話はさて置いて。 諦めるとは、明らかに究めることなのだそうだ。ヨットマン、海洋冒険家の 白石康次郎さんは、物事や状況を明らかに見究めて、その結果断念することは、 恥ずかしいことではなく、正しいと言う。必ず次につながる。そういう諦めは何回も した。しかし、明らかに究めることもせずに、ただ投げ出すことはしなかったと。 再び仏教にもどれば。苦悩の原因は飽くなき欲望、我々の無知にあるとする。 そして自分の苦悩を、社会が悪い、あの人のせいだと「あきらめ」てしまう。 しかし、自分の欲望、無知によると「諦める」ことができれば、現状を受け入れ、 解決もできる、というのだが。篆刻は、「諦」。意味ありげな四角、丸に意味はない。 ただの成り行き、思いつき。日暮れて道は遠いが、転がる石はどこへ行くのか。
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