春の風、のように。(篆刻:春風接人)

春風接人
山菜といえば、10年以上も前だと思うが。岩手県の花巻にPRビデオの ロケハンに行ったときのこと。予算も無かったから文句は言えないのだけれど、 その宿がひどかった。焼肉屋の2階が名ばかりのビジネスホテルで、階段から 臭いも客の声も上がってくる。安眠どころではないので、朝早く代理店の人と 連れ立って、喫茶店を探した。聞けば、薬屋さんの中にあるのだという。 昔からの大きな薬屋らしいのだが、その一角が喫茶店。常連さんに混じって コーヒーを飲んで、やっと人心地。話が宿のひどさになるのは、仕方ない。 するとカウンターの中のおばあさんが、奥から何かを持ってきた。皿にのせて、 「まあ、お食べなさいな」と出してくれたのは、ワラビを薄い塩で漬けたもの。 少し醤油をかけただけで、歯ざわりがやわらかく、味の奥深いこと、絶品。 ふたりの満面の笑みを見ながら、おばあさんは言った。「せっかく来てくれた 花巻が悪い印象で終わるのは残念だから。いい思い出も持って帰って ほしいから」と微笑む。毎年山菜の季節になると、この朝の至福を思い出す。 篆刻は「春風接人」で、春風のように人に接する。以前の「秋風自慎」との対。 夏だったが、私の花巻の記憶には、いつもあたたかな春の風が吹いている。
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