苦しみを、抜けて。(篆刻:抜苦与楽)

抜苦与楽
全22巻の『開高健全集』を、奈良県立図書情報館で2巻ずつ借りて読んでいる。 嫌な感じを「酸」といい、電車を「古鉄の箱」という、彼独特の例えが違う作品にも 何回も出てきて辟易することもあるけれど。いくらフィクションの形をまとっても、 これは彼の生の真実だろう、本音だろうとしか思えないことが、多々ある。 小説もルポルタージュも、すべての作品は自己の表出で、全集は分厚い履歴書だ。 亡くなったMさんの奥様から冊子が届いた。Mさんが大学時代に出していた 同人誌が、彼の病気を機に37年ぶりに復刊されたという。激しい痛みのなかで 書いた小説が巻頭にあった。「晴れた日は、岸壁沿いを歩くと気分がいい。 神戸の港が好きだ。」で始まり、「私はピンクの魔法瓶からはじき出された。 魔法の国よ、永遠なれ!」で終わる。痛みなど感じさせない現代のおとぎ話だが。 南米の小国という、魔法瓶の中のような珍妙な世界は、癌という名状しがたい 世界を彼独特のユーモアで反転したのではないかと、うがった読み方をした。 最初の1行に、すべてが凝縮されている。最後の「永遠なれ!」の後に、 「さぁ、大好きな神戸に帰るのだ。」という声が聞こえる。篆刻は、「抜苦与楽」。 宗教の役目と聞いたことがあるが、Mさんとは宗教の話をした覚えがない。
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