昔の篆刻「遊心」を見たら側面に「祈母之平穏 一九八〇年十月」と彫ってあった。
私の父母は、横浜からこの家に移り住んだことがあって、その頃母が腸閉塞で
手術した前後と思われる。母が手術というのに「心、遊ばせよう」は異な感じだが。
吉田一子さんは、大正14年生まれの85歳。60歳を過ぎてから、大阪・富田林の
人権文化センターの識字学級で字を習いはじめた。ひらがながやっと書けるように
なった頃。銀行に娘さんに書いてもらった払戻し請求書を持って行ったが、数字が
ダブっていたとかで、書き直すよう言われた。字が書けないから代わりに書いてと
頼んだが書いてくれず、自分のお金が出せない。その悔しさで漢字も習いはじめた。
ある時は、駅で落書きを見て、びっくりして涙を流す。「なにかんがえてるんやろね
だいじな かわいい じ つこて ひとの わるぐち かいて」と、日記に書いた。
NHKのドキュメンタリー番組で、小学生の前で話をした時。いちばん好きな漢字は、
と聞かれた。実の母が2歳の時死んだから「母」と答えて、ホワイトボードに人前で
はじめて漢字を書くことになった。恐る恐る書いたその「母」は、とてもいい字だった。
私はそれを見ながら、誰かが、母という字は「女とふたつの乳」と教えてあげたら、
もっと早く覚えられただろうに、と思った。篆刻は「母」で、横座りする垂乳の女。
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母、という文字。(篆刻:母)
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