傑物が、いた。(篆刻:傑)

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津本陽の小説『柳生兵庫助』には、「兵庫助が刀傷を負った時、狭川の別荘に妻と
静養して、前の川に潜って大きな鯉をつかむ」という話があるが、フィクションだろう。

手元に『武芸流派大事典』という分厚い本がある。昭和44年、新人物往来社刊で
編者は綿谷雪・山田忠史。以下はそれからの転載。「【狭川派新陰流】狭川新三郎
助直。先祖は大和の狭川城主一万石、狭川上野亮助正。助正から助重-助貞と順次
して、助貞は織田信長に仕えたが、信長死して狭川城も陥った。助貞は上泉伊勢守
の門人。助貞の次子助信、父の業を受け、その子の新三郎助直に伝えた。助直は
柳生宗矩の門人となって、柳門四傑の一人と称された。延宝五年仙台候に召されて
師範となる。三百石。伊達綱村の師範として、これより新陰流を藩主自修の刀法と
定め、御流儀兵法といった。元禄八月十六日死す。五十五歳。仙台の向小田原の
万寿寺に葬る。男嗣子なく、娘に門人森島市助を配した。市助は名をあらためて
狭川新之丞助久という。家禄のうち百石を助直の皆伝門人桜田彦七に分知し、桜田
また狭川姓を名乗った(東藩史稿、他)。」 ここ狭川で昔から剣道が盛んだったのは、
地名にもなっている狭川家に柳生新陰流の名を背負う傑物がいたことがあるだろう。

しかし詳細な系譜は古老もご存じではないのではと、あえて書き記した次第です。

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