城跡に、登る。(篆刻:城)

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前・九頭神社宮司の奥西正俊氏がまとめられた『狭川の史跡と伝承』の年表では
狭川庄が成立したのは平安時代。室町時代には狭川庄の豪族として狭川氏と
福岡氏が登場する。惣領家狭川氏の下狭川城跡は前川と白砂川に挟まれた高台。
50?60年前まで狭川家の屋敷があり、いまは畑地だが、裾には馬場跡があって、
奥には累代の墓がある。東大寺長老の狭川明俊、〃宗玄氏はその子孫になる。

福岡氏の上狭川(福智福岡)城跡は西狭川と狭川東の境の山上にある。主要部は
東西30m南北60mの長方形で、周囲に1?3mの土塁がいまも残る。この地域の城
としてはきわめて完成度が高いという。その子孫・福岡孝悌は土佐藩士で山内容堂
の意を受けて二条城で徳川慶喜と会談し大政奉還を促した。五箇条のご誓文を起草
して文部大輔、文部卿を歴任する。現・狭川東町公民館は福岡家の館跡と思われ、
福岡氏の菩提寺・吉水寺に天文七(1538)年建立された十三重石塔が残っている。

鎌倉幕府打倒を目指して後醍醐天皇が笠置にこもったとき東部山間の豪族はすべて
笠置山に参じた。それを目指して鎌倉方の軍勢数万が狭川の村を駆け抜けたという。
大阪夏の陣で豊臣が滅亡。狭川の地侍は領地を失い戦功のあった藤堂高虎に与え
られた。のどかな狭川にも時代に翻弄されながら必死に生き抜いてきた歴史がある。

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