8:本来、法など無い。

201512017244.jpg「本来無法(40×40ミリ)」
正月気分も抜けたから、「いわゆる篆刻」への憎まれ口を再開しよう。この篆刻「本来無法」は、アートとしての書を目指した井上有一の遺偈「貧を守って揮毫する 六十七の霜 端的を知らんと欲す 本来、無法なり」から借りた。

無法を語るには、まず法の言い分を聞いてから。「いわゆる篆刻の作法」には、時代の違う書体は混ぜてはいけない」とある。書体とは、最古の書体で亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻まれた甲骨文、青銅器に鋳込まれた金文、そして秦の始皇帝が統一した篆書体。さて「本来無法」を篆刻しようとすると、「本」は甲骨文、金文になく、「来」は甲骨文、金文にある。こんな場合は、「来」に合わせて「木」と根元を意味する「肥点」を加えて「本」を作れという。ここでもう「書体を混ぜるな」という作法が破たんしてしまうのが情けない。

「無」は甲骨にはなく、金文、篆書では巫女が飾りのついた袖を振って舞う姿だが、後の中国の篆刻家が常用する漢字で彫った「無」とした。「法」は、甲骨文になく、金文では神前での審判に使う羊の象形「タイ」と水と去だが、篆書体には常用漢字の原形がある。こうして私の「本来無法」は出来ているのだが、「いわゆる篆刻」では言語道断の掟破りになるらしい。

いわゆる篆刻が書体を混ぜるなというのは、何度も言うが「もっともらしい贋作を作ろうとしているから」なのだ。新たに発見されたゴッホの絵に、その時代に無かった絵の具が使われていれば贋作となるのと同じ論法。

緑青のでた銅印の風韻を金科玉条とするならそれで結構だけれど、ここは21世紀の日本なのだ。漢字が中国・殷の時代に現れたのは3400年以上も前。日本に渡り、片仮名、平仮名が生まれ、アルファベットもあるこの日本で篆刻を志すなら、膨大に蓄積された多様な文字という宝の山を持ち駒として自由自在に駆使しながら、自分の前の原野に攻めていくべきではないか。もともと法などはない。もし法があるとすれば、自分だけの法を探し、創る。厳しいけれど、それしかないのですよ。

 

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