どこでも主となる、ならば。(篆刻:随所作主立処皆真)

随所作主立処皆真
奈良の山彦が、本来自分は海彦なのだと思って海のそばに住んだのだが、 これが何とも落着かない。管理組合とのゴタゴタ以前の問題。心も体も、ふわふわする。 物事に集中できないから、とてもコピーなんか書けない。実は、その逗子Mの4階で、 川端康成さんは自ら命を絶っている。鎌倉の自宅だったなら、そうはしなかったのでは とも、思う。海は高揚・拡散させ、山は沈静・集中させる、というのが、私の実感。 だから禅宗のお寺は、ほとんどが山の中。海岸の洞窟で悟りを開いた空海さんは、 むしろ例外。密教はハイテンション系ですからね。私の場合は、山彦だと50過ぎて やっと分かった、というお粗末。篆刻は旧作「随所作主立処皆真」。「随所に主となれば、 立つ処、皆、真なり」で、臨済宗開祖・臨済禅師のお言葉。ものの本によれば、 「自分の居るその場所で、精一杯やるなら、どこでも真実のいのちに巡り会える」とある。 どんな立場、居場所であっても、自らの主体性を失わなければ、自分の真実を貫くことが できる、ということでしょうが、それが出来たら高僧にもなれる。私は、会社勤めでも 管理職なんかいやだ、なっても自分のやりたいことが出来るディレクターまで、と 思っていたが、それはただの我がまま、自分の勝手。管理職になるほどの徳もなかった。 「随所作主立処皆真」。私は言葉を聞き知っているばかり。やっぱり彫っただけ。
ページ上部へ