まさにこだわることも、無く。(篆刻:応無所住而生其心)

応無所住而生其心
言葉の意味も知らず、むろん体得した訳もなく、ただ彫っただけを、もうひとつ。 「応無所住而生其心」は、「まさに住する所無くして、しかもその心を生ずべし」。 住むところが無く、実に困った、ではない。すべては空・無我であると説く「金剛経」で、 「おうむしょじゅうにしょうごしん」と読む。字が読めない人のための絵文字般若心経で、 「摩訶」は釜を逆さまに書くが、これは「大麦小麦一升五(ごん)合」と唱えよ、と教えた。 「エクスキューズ ミー」が「挽き臼め」で、「ファット タイム イズ イット ナウ」が 「掘った芋いじるんでねぇ」の類い。本題に戻れば、住するとは心が一ヵ所に留まる、 執着すること。すべての迷いはそこから生ずるという。では、その心って、どの心? 禅独特の言い回しで分かりにくい。さすがに伝わらぬと思ったのか、 「応生無所住心」、まさに住する所無き心を起こさねばならぬ、と補足しています。 道元さんは、これを「水鳥の行くも帰るも跡絶えて されども道は忘れざりけり」と 詠み替えた。この歌は、剣道の世界でも「平常心」を説く道歌とされているけれど。 私といえば、座禅などしたこともなく、剣道も道半ばのずっと手前で投げ出した根性無し。 真意など分かる日は来ないが、些細なことにこだわる自分にふと気がついたら、 口の中でモゴモゴと繰り返そう。ひらがなで「おおむぎ こむぎ いっしょう ごんご」と。
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