『倭人とはなにか』を読む。(印影:漢委奴国王)

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出野正・張莉ご夫妻から共著『倭人とはなにか―漢字から読み解く日本人の源流―』
(明石書店)を送っていただいたので、楽しい読書納めになった。「倭人」のルーツは
中国・長江の中下流の南側、滅亡した越の従順な民族で、ベトナムやタイ、さらに朝鮮、
または直接日本へ渡り、稲作や高床式建物を伝えたという説は、このブログの「張莉さん
の『「倭」「倭人」について』」「その2」「その3」
で紹介したので、お読みいただくとして。

第1章「(二人の)西双版納の旅」が発見と驚きにあふれて興味深い。西双版納(シー
サンパンナ)は中国の雲南省最南端の傣(タイ)族自治区で、一万二千の稲田の意味。
故鳥越憲三郎氏の日本と中国南部、朝鮮の古代文化の共通点研究を確かめる旅だ。
以下は二人が確認した日本との共通点。高床式建物と切妻造、入母屋造、校倉造、千木
(ちぎ)や堅魚木(かつおぎ)、棟持柱など。村の門の上にある鳥の彫刻は神社の鳥居の
原形。食べ物では、餅、赤飯、豆腐、こんにゃく、納豆、ちまき、馴れ鮓など数えきれない。

共通点は銅鑼、下駄、注連縄、鎮守の森、神籬(ひもろぎ)、貫頭衣、文身(入れ墨)、断髪
にも及ぶが、鵜飼も南中国と日本のみの文化だという。これほど共通点があれば、倭人が
南中国から日本へという説に反論はできないだろう。ひとつ、気になるのは中国や朝鮮を
経て薄まったり消えたりした文化がなぜ今も日本に根強く残っているのか。それが知りたい。

※出野正氏から早々にお返事をいただきましたので、以下に転記します。ありがとうございました。
①南中国文化と日本列島文化の接点として挙げられている事項の中で銅鑼は外した方がよいと思われます。銅鑼の紋様が楽器の南(銅鼓)に近いという話を本の中でしましたが、銅鼓そのものは日本には伝わっていません。一部鳥居龍蔵氏が銅鐸の元は銅鼓であるとの説を出されたが、形があまりにも違いすぎるため、いろんな説の中の一説として位置づけられています。
②「ひとつ、気になるのは中国や朝鮮を経て薄まったり消えたりした文化がなぜ今も日本に根強く残っているのか。それが知りたい。」
この件ですが、中国や朝鮮は「倭」文化以外の文化を持つ集団が中心的な勢力となり、「倭」文化が駆逐されたからだと思います。中国でも、東海岸あたりには「倭」文化の村落があったと思われますが、漢化されました。朝鮮では「倭」は562年に滅び、新羅→高麗の文化が中心となり「倭」文化は途絶えました。それに対して、日本列島は「倭」文化を持った「倭人」が中心勢力となったため、それが天皇一系や神社文化として残っているのです。その結果、「倭」文化が残っているのは日本列島と南中国やタイ・ラオス・ベトナムなどの現在まで存続してきた倭族の村落に日本の神社文化と根元が同じである共通文化が残ったと思われます。

 

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